「瘍疔及び之に類する腫物に対しての手術は最も不可にして、是等は自然療法が最も安全確実である。忌憚なく言へば、是等の病にて生命を失ふに到る原因は、大方手術の為といっても過言ではないので、之は医家も気付かねばならない筈である。
何となれば、一切の腫物は血液中に在る毒素が、自然浄化作用の為膿化し、其膿が体外に排泄さるる現象であるから、自然に放置すれば、熟する丈熟して、最後に破れた皮膚面から全部排膿されて、痕跡も無く治癒するのであるにも不拘、医師は未だ熟せざるに切開をするを以て、充分患部に膿が集溜してゐないから、幾日も排膿の工作を続けなければならないのである。
自然療法に於ては、排膿期は、患部の内面は、既に新しい肉が形成されてゐるから、排膿するや速かに、常態に治癒するのである。故に手術するよりも、自然療法の方が、短時日に全治するのである。(中略)」 (「手術」医書 S11.4.13.)
「腫物には、瘍疔(ヨウチョウ)や其他結核性等種々あるが、大体は同一と見做して可いのである。それは腫物のすべては浄化作用によって、体内の不純物が毒血や膿汁となって一旦皮下に集溜し、腫脹し、皮膚を破って排泄せらるるのであるから、全く生理的自然作用といふべきものである以上、放任しておけば、順調に治癒するのである。
然し乍ら、右の過程は多くは激痛を伴ふものであるから、患者は何等かの方法を施さねば居られないのである。本療法によれば二三回の施術によって、如何なる痛苦と雖も解消するので、患者は驚きと喜びを禁じ得ないのである。故に、相当大きな腫物であって盛んに膿汁を排泄するに拘はらず、些かの痛苦もないので、不思議に思ふのである。
そうして茲に注意すべきは、腫物に対し切開手術を行ふ場合、折角集溜しつつあった膿汁は集溜運動を休めるのである。切開でなくも針で皮膚を破っただけでも集溜は停止さるるのである。其結果は全部の膿血が排泄されずに一旦治癒するのであるが、勿論残存膿血がある以上、其附近に再腫物が出来るのである。之は幾多の経験によって鉄則といってもいいのである。故に腫物の場合、飽迄自然的に、聊かのメスや鍼も用ひぬやう注意すべきであって、勿論冷す事も温める事も、膏薬を使用する事も不可である。
世間よく、腫物を散らすといふが、之は、誤りであって散るのではなく押込めるのである。折角外部へ排泄されんとした膿血を還元させる訳であるから、病気治癒ではなく、その反対である事を知るべきである。」 (「腫物とその切開に就て」明医二 S17.9.28.)
(※「腫物及び火傷、切傷」天 S22.2.5.類似)
「(中略)凡ての腫物類は放っておけば、腫れるだけ腫れて最後に小さな穴が穿き、其処から血膿が排泄して全治する。而もどんな大きな腫物でも聊かも痕跡は残らないから、今後此理を心得ておれば、驚く程の膨大な腫物でも何等心配はない。而も之は非常に結構な浄化で、若し右の毒素が内攻すれば、内臓の病気になる処を外部に排泄されたので、大難が小難で済んだ訳である。」
(「手術に就て」医革 S28.)
「お蔭話で、よく御霊紙を貼つて、大分お蔭を頂いていると言う報告がありますが、浄霊で治りますけれども、御霊紙は、又特種の――特別の力があるんです。昔はよく拵えて別けてやつたものです。例えば瘍疔なんか出来ますが、御霊紙をはつた丈でも――その時分は御霊膏と言つてましたが、膏薬の膏ですが、瘍疔なんかは直きに治るんです。実に簡単にね。(中略)
今度は御霊紙を拵えましたから、今日からわける心算りです。それは、勿論「オデキ」とか腫物とか、そう言うものに貼つて良いし、それからお腹の中――体内の病気の時、それを小さく切つて、或はちぎつてでも良いが、それを水で飲むと、非常にお蔭がありますからね。それがあると気強いですね。それを続けてやりたかつたが、以前は非常に喧ましくて、口に入れるものとかは、《我々は消毒とかそう言う事をしないから》危険だと言う。こつちは何でもないが、他の宗教で、護符だとかを水で飲ませるとかやつたが、あれを喧ましく言われたから、私の方もつまらない事で引つ掛るから止したんです。今日はその時分と全然違いますからね。最近気がついたものですから、そう言う風にした訳で、今度は大いに利用した方が良いと思います。」 (「御教集3号」 S26.10.11.)
「足の腫物は薬毒がそこから出るのだから結構である。膝裏から腎臓部、右股の付根を押すと痛い固まりがあるから、そこを浄霊すれば治る。(中略)」 (「地天17号」叡智の光 S25.10.15)
《浄霊》 患部及びその周辺、