B,眼、耳、鼻、口等の病
「(中略)涙にも涎(ヨダレ)にも唾(ツバ)にも鼻汁にも、有毒と無毒とがあります。肥厚性鼻炎や口脣が糜爛するのは皆有毒の為であります。(中略)唾液や鼻汁、涙の毒素は、未だ判ってゐない様であります。」 (「眼病」療講 S11.7.)
「薬毒の溜る場所は必ず神経を使うところに限られ、上半身、特に頭脳を中心として眼、耳、鼻、口などでここに毒素が集中して一たん頸の周りに固まる。これをコリといって、ある程度に達すると浄化作用(自然排泄作用)が発生する。この場合、発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿などになって排除される。この状態を普通感冒と名附けている。
感冒は、毒素排除の一つの過程だから、少し苦しいかも知れないが、我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄によって治る。(中略)」 (「毒素は頭脳に集中」東日 S28.2.25.)
「(中略)人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、凡て相応の理によって浄化が行われるのである。」
(「御神意を覚れ」 S28.12.2.)
B-① 眼 病
「一番の眼目は眼で、眼にも種々な病気がある。又此眼病は割合多くて治り難いのでありますが、眼そのものの病気としては治り難い事はない。然し誤れる療法の為に助かる眼も駄目になって了ふ場合がよくあるのであります。(中略)
何故涙に毒素があるかといふと、元来、涙は眼を保護するもの、或は眼を清潔に洗ふ為のもので、水分即ち一種の漿液であって、眼へ出る前一旦涙嚢に溜るので、其場合其人に毒素が多い為、漿液として通過する際それが混入するのですから、本療法で眼と其辺一帯と、後頭部及び後頸部を浄化すれば涙が無毒になるから治るのであります。(中略)
眼を診査するには、最初前額から顳〓(コメカミ)辺へ掌を触れ、熱ければ毒素があるので、其他眉の辺上瞼等を押し痛む人は眼球に毒素が溜ってゐる證拠ですから、治療は眼を中心に頭部、顔面、後頭部等を浄血すればよいのであります。(中略)
元来人間は上部即ち頭部、頸部、肩部附近に滞溜する毒素は主に後部でありますが、絶えず鼻耳口などから排泄されよふとしてゐる。それは後方には穴がないから、孔のある前の方へ流動するのであります。それの表れとして、眼を使ふ時は眼へ毒素が集溜され眼病になるのでありますが、実は其際の眼は、毒素排泄の役目を遂行せんと一時自分の家へ集溜さした様なものでありますから、時日の経過によって目脂等で排泄され浄化されるのであります。
然し、其事が判らないと、患者に対し極力眼を使はせない様にしますが、本当に治す意味から言ふと眼を使ってもよい。何故なれば、そうすれば排泄すべき毒素をより速く眼に集溜させるからであります。出来る丈毒素を寄せて排泄さした方がよいのであります。
眼鏡は、出来る丈かけさせない方が好いので、之は胃病の場合の胃の薬と同じ事で、眼鏡の力を借りるから眼の力は退化するのであります。
次に、眼の養生法をお話致しませう。それは寝てゐて本を読むのは極悪い。以前、眼の悪い患者を治療してゐた時、なかなか治らぬので、ふと気が附いて、寝てゐて本を読むのではないかと訊くと"そうだ"と言ふので、そこでよく説いて、それをやめさせてから良くなった事があります。元来人間は、横になれば眠る事に決ってゐる、横になって本を読むのは天理に外れてる。本を読むのは起きて机にでも向ふのが本当であります。ですから眼の悪い人には、それを訊いてみる必要があります。
又、電車の中で読むのは、見てゐる物が動くので極わるい。夜電車内で電燈の薄暗い光で読むのは殊に悪い。私は先に大森から東京へ通ってゐた事がありますが、退屈するので新聞など読んだが、ドシドシ視力が衰へるのでそれに気が付き止めた事があります。(中略)
そうして眼を治療する場合は、(中略)眼は後の方をよく治療するのです。眼の悪い人に限り、眼の裏の方が非常に凝ってゐるもので此辺をよく浄化するのであります。
鍛治屋などで、よく火華が飛んで眼が悪くなりますが、之も時が経てば必ず自然に治癒されるものですから、放ってをいてよいのであります。(中略)
又、眼を開けてゐるので苦痛なので、自然眼を塞ぐ人があります。之は額の辺に水膿が溜結してゐるから、之が為重くなるのであります。(中略)
又面白い事には、毒素が眼へ集溜した場合白眼の方は紅くなり、黒眼の方は白くなるのであります。特に、眼病の治療日数は、最初に於て言明する事は不可能でありますから、先づ一週間位治療し、其効果によって判断すべきであります。」
(「眼病」療講 S11.7.)
「次に、眉毛の部を押してみて痛い人は毒血がそこに溜って居て眼に異常がある。上瞼を押して痛い人は確実に眼病になってゐる。それは眼球に毒血が溜結してゐるからであります。」
(「患者取扱」療講 S11.7.)
「眼病は之が多い、上から来る毒が眼の中へ入って見えなくなる。顳(コメカミ)の場合もある。額から瞼の奥の方を浄化する。眼からやった方がよい。瞳の真中へ向って霊を集注する。目脂が出る程治る。一回やって効果がなければ長くかかる。」 《
図2》
(特別講習会御講話 S15.11.9)
「種々の眼疾は、何れも浄化作用による毒素の眼球に集溜するのが原因であって、その毒素の性質と集溜状態、眼球の集溜個所等によって、症状に差別がある(中略)」
(「近 眼」明医二
S17.9.28)
「(中略)種々の眼疾は何れも浄化の為の毒素が眼球から排泄されようとして集溜することが原因である以上、その毒素を排泄する事によって治癒するので、其方法としては本医術による外ないのである。(中略)
次に眼に就て知っておかねばならぬ事がある。それは眼球充血の場合紅色を呈するが、之は血液ではなく膿であって、眼に限り白色の膿が眼球に集溜する場合紅色を呈するが、膿排泄に従ひ紅色は消滅するのである。」 (「眼病」天 S22.2.5)
「(中略)眼の悪い人は、延髄部を主に頸部から肩にかけて固結があり、又前頭部に必ず発熱がある。そこを浄霊すると軽い眼ならそれで治る。私は手術をしない眼ならば、大抵は治るといふが、今日迄盲目を幾人となく全治さしたからである。近眼及び乱視など延髄部の固結を溶かせば、百発百中治る。」
(「人形医学」文創 S27.)
「眼病も甚だ多いものであるが、大抵の眼病は放っておいても治るものを、薬を入れるから治らなくなるのである。というのは眼の薬程毒素を固めるものはないからで、盲目なども殆んどそうであって、一生涯不治とされるのも薬の為で、全く恐るべきものである。
特に盲目であるが、此原因は最初眼球の裏面に血膿が集溜したのが底翳であり、外側のそれが白内障又は角膜炎であるが、之も自然に委せれば僅かづつ眼脂や涙が出て治るのである。又目星は眼に出来た小さな出来物と思えばいいし、流行眼で目が赤くなるのは浄化による毒素排泄の為である。又小児などで目が開けられない程腫れ、膿汁が旺んに出るのは非常に結構で、放っておいて出るだけ出て了えば治るのである。処がその際冷したり、温めたりするのは最も悪く、その為長引いたり悪くなったりするのである。
茲で特に注意したい事は点眼薬である。之こそ固める力が強く、吾々の経験上発病後直ちに浄霊すれば簡単に治るが、一滴でも点眼薬を入れたらズット治り難くなるのでよく分る。又硼酸で目を洗ふが、之も悪いので、硼酸の薬毒で其時は少しいいが、度々行ってゐると中毒となって目がハッキリしなくなり、クシャクシャするやうになるのである。考えてもみるがいい、瞼の裏の粘膜といふ柔い布と、涙といふ上等な液で自然に洗はれるのであるから理想的である。(中略)」 (「眼、耳、鼻、口」医革 S28.)
「目は頭の毒素の集注-治療は奥の方をしなくてはならぬ。」
(御講話 未 年月不詳)
「(中略)目が悪いのは、左と右の延随の真中の後頭部の所ですから、目の悪い人は其処を中心にやればいいです。これは実にはっきりしてます。目の急所は後頭部のちょっと下の所に必ず固まりがあります。そういう人は目が悪いのです。近眼もそうです。それから右の目の場合は左に固まりがあります。これは交感神経が頭を中心に交叉してますから、逆になるわけです。」
(「御教集21号」
S28.4.5)
「(目が悪い為に毎日浄霊、何の変化もない・・・)
薬の為である。眼の悪い人は額に熱がある。」
(「講話集補」
S24.2.15.)
「(幼時眼疾、現在明快な視力を欠いて居ります・・・)
薬の中毒が残っている。眼は割に治りいい。重いのは腎臓をしなくてはいけない。」 (「講話集補」 S24.3.4.)
「(出鱈目である。)眼で生命をなくす事は絶対ない。それがもし本当なら盲は全部死ななくてはならぬ。どういう根拠があって言うのか不可解だ。実に怪しからん。(大いに結構である)
頭の毒(膿)が眼球へ集って出るので眼へ一時固まる。薬で固まるので、反対の眼へ来る。それで両眼失明する事になる。順調に治りつつある。(皮膚からも出ようとしている)」
(「講話集補」 S24.6.23.)
「眼病は眉の上をやらなくてはならぬ。之が冷たくなると治る。」
(「講話集補」 S24.6.29.)
「(中略)目は頭の毒が後ろへ寄る。目の悪い人は頭の奥、前頭部、横、延髄(目の元)を浄霊する。薬が除れるに従い治る。目薬は除れ難い。」 (「講話集補」 年代不詳.)
《浄霊》 頭の奥、前頭部、額の熱部、眉及び眉の上、瞼の奥、 眼(瞳の真中)と其辺一帯、顳(コメカミ)、顔面、後頭部、 延髄部、後頸部、肩部、腎臓