既存医学の誤謬について

「(中略)病気に対する薬物療法は、人類に如何に根強く浸潤したであらふか。病気に罹れば薬を服むといふ事は、腹が減れば飯を食ふといふ事程、それは常識となってゐる。然るに驚くべし、薬物は"病気を治癒する力"は全然なく、反って病気を作る即ち病原となる-といふ、恐るべき毒素であるといふ事を、私は発見したのである。到底信じ得べからざる大問題であるが、然し、真理は飽迄真理であって、奈何とも為し難き事である。(中略)


 私は、最初の方で病気の原因は、浄化作用であり、浄化作用は苦痛が伴ふその苦痛が病気である-と説いてある。即ち人間は誰しも苦痛は厭だ、早く免れたいと思ふのは判り切った話である。その場合、苦痛を除るには、二つの方法しかない。一つは完全に除る-といふ事、それは排泄さるべき毒素を、全部排泄さして後へ残さない事である。今一つの方法は、一時的苦痛から遁れる事である。それは、苦痛の起る以前の状態に還元さす事である。それは、浄化作用を停止し、浄化作用の起らない時の状態にする事である。処が、前者の完全排泄は自然治癒法であるから時がかかり、であるから、早く苦痛から逃れたい-といふ事が、今日迄の薬物療法は固より、凡ゆる療法を生み出したのである。(中略)」

 

                     (「薬剤の毒(一)」医試 S14.)




(中略)人間が病気に罹るとする。熱が出る、痛み、不快、咳、痰などが出る。薬を服むと軽くなる。丁度、薬によって病気が治るやうにみえる。然し、度々言った通り、薬と称する毒を服んで全身を弱らせる。弱らせるから浄化作用が弱る。苦痛が軽くなる-といふ訳である。処が、それだけなら未だいいが、その服んだ毒は如何なるであらふか、それが問題なのである。


 茲で説明をしておくが、人体には毒素を嚥下すると、解毒又は排毒作用が行はれるやうになってゐる。然し、毒といっても殆んどが食物の毒である。であるから、人体内には、食物だけの解毒作用の力はあるが、それ以外の毒素の即時解毒作用の力はないのである。であるから、食物以外である所の薬毒の解毒作用は全部行はれないので、或程度体内に集溜する。(中略)」

 

              (「薬剤の毒(二)」医試  S14)




私は、現代医学に対し、凡ゆる面から解剖し、忌憚なきまでにその誤謬を指摘批判を加へたつもりである。然し乍ら、帰する所その結論は左の如きものであらう。


一、病気に対する医学の解釈が、浄化作用である事を知らなかった事。

 

二、従而、病気を悪化作用と解し、浄化作用停止を以て、病気治癒の方法と誤認した事。

 

三、薬剤はすべて毒素であって、その毒素が浄化作用を停止するのみならず、その残存薬毒が、病原になるといふ事を知らなかった事。

 

四、病気は浄化作用である以上、自然が最も良医であるといふ-彼のヒポクラテスの言を無視し、すべて人為的療法を可とした誤謬。

 

五、医療は一時的効果を以て、永久的と誤認している事


 大体右の如きものであらう。それに就て、右の内四までは詳説したから、読者は十分諒解されたであらうから、但だ五に対して大いに解説する必要があらう。


 先づ医療としての凡ゆる方法は、一時的治癒であって、それを真の治癒と錯覚してゐることである。而も一時的治癒の方法が其後に到って逆作用を起させ、病気悪化の原因となり余病発生の動機となるといふ事も知らなかったのである。之に対し種々の例を挙げて説明してみよう。


 曩に詳説した如く、薬剤や氷冷、湿布等を行へば、一時的苦痛が軽減するので、之によって治癒するやうにみえるのである。又耳鼻の洗滌胃の洗滌等や点眼薬、コカインの鼻注、含嗽薬、すべての塗布薬、膏薬等も勿論一時的苦痛軽減法である。又解熱剤、利尿剤、下剤、睡眠剤、モヒ注射等も同様である。又、歯に対する含嗽薬は歯を弱らせるし、殺菌剤応用の歯磨は殊に悪いのである。


爰に面白いのは、歯科医が歯孔(シコウ)をセメント等にて充填する場合、殺菌剤にて消毒するが、之等も大いに間違ってゐる。何故なれば、充填後大抵は痛むものである。それは殺菌剤が腐敗し、毒素となって排除されようとする。その為の痛みである。故に充填の場合、全然殺菌剤も何も用ひない時は、決して痛みは起らないのである。私は、歯科医に厳重にそうさせて以来、決して痛まないのである。従而、歯科医が斯事(コノコト)を知って薬剤を用ひないやうになれば人々は如何に助かるであらうかと、私は常に思ってゐるのである。


 又、仁丹なども少し位は差閊(サシツカ)へないが、常用者になると害がある。以前私は、仁丹中毒の患者を扱った事がある。此人は拾数年間、常に仁丹を口に入れてゐたので、最初来た時は顔面蒼白で痩せ細り、胃も相当悪るかったが、其原因が仁丹にある事が判ったので、大いに驚いて廃止し、其後漸次健康を恢復したのである。


 次に、世人の気の付かない事に、薬湯の中毒がある。それは元来風呂の湯は何等異物の入らない純粋の水が良いのである。然るに、薬湯の如き異物が混入すると、その薬毒が皮膚から侵入し、一種の中毒となり、健康に害を与へるのである。故に薬湯に頻繁に入る人は顔色が良くない事を発見するであらう。そうして薬湯が温まるといふ事をよく謂ふが之は如何なる訳かといふと、微熱のある人は常に軽い悪寒があるから寒がりである。


然るに薬湯へ入ると、薬毒が皮膚から侵入するので、浄化作用が停止し、一時的微熱が無くなるから悪寒がなくなり、丁度温まるやうになるのである。又温泉の湯花を入れるが、之等も温泉へ入るのとは違ふのである。何となれば温泉は山の霊気が含まれてゐるから、それが身体に利くのであるが、湯花は霊気が無くなった-いはば滓(カス)であるからである。


次に扁桃腺及び盲腸の手術は曩に説いた如く、二、三年の間は成績がいいが、其後に到って悪い事や、又胃病に対し消化薬を服み、消化し易い食物を摂るに於て、漸次胃が弱るといふ事や疲労を恐れたり、睡眠不足を恐れるといふ事なども一時的を主とした誤りであり、栄養食も曩に述べた通りである。(中略)


 又医師の短命も近来著るしい現象である。私は種々の博士の中、医学博士が一番短命ではないかと思ふのである。之は誰かが統計を作ってみれば面白いと思ふ。少なくとも人の病気を治し、健康を増進させる役目である以上、何よりも自己自身が健康であり長命でなくてはならないし、又その家族の健康に於ても、医学的知識の少ない世間一般の人々よりも良くなければならない筈である。そうでなければ医家としての真の資格は無いと言っても、敢て侮言ではなからうと思ふのである。


例へていへば如何に道徳を説くと雖も自己が実践出来なければ人を動かす事が出来ないのと同様である。故に、今日の医学衛生の理論を最も信奉する人々がふえるに比例して、青白いインテリが増加するといふ事によってみても明かであらう。


 以上によって、私の創成した日本医術が既存医術に比して如何なるものであるか、読者は大体諒解されたと思ふと共に、ここに最も重要なる事は、その治病力の如何に素晴しいかといふ事である。私としては、事実ありのままを告白するとすれば、それは余りに自画自讃に陥らざるを得ないが、言はなければならないから敢て発表するのである。


 病気の根源は毒素である事、毒素とは膿汁又は毒血の凝結したものである事はいふ迄もない。勿論西洋医学に於ても、その点は認めてゐるのであるが、但だ異なる点は、西洋医学に於ては、黴菌によって毒素が増殖せられるといふに対し、私の方は、浄化作用によって毒素が集溜するといふのである。


故に、西洋医学の伝染に対し、私の方では誘発と解し、又西洋医学に於ては、凡ゆる病気は、抵抗力薄弱によって、外部から黴菌による毒素が侵入繁殖するといふに対し、私の方は、体内に於て集溜凝結した毒素が、浄化溶解作用によって外部へ排泄される為といふのである。


故に、その療法原理に於ても、西洋医学に於ては、体内に毒素を固むるのを目的とし、私の方は毒素を溶解して体外へ排泄するのを目的とする。一は、固むるのを目的とし、一は溶かすのを目的とする。従って固むる結果は病原を残存させ、再発の因を作るのである。之に反し溶かす結果は、病原を排除し、再発の因を無くする事である


 右の如き、両々相反する理論は、何れが真理であるかは言を俟たずして明かであらう。然し乍ら、私の右の理論に対して、特に専門家は曰ふであらう。成程病気の根原は毒素であるが、その毒素を溶解排除するなどは、実際上不可能で、それは理想でしかない。故に止むを得ず次善的方法として手術か又は固むるので、固め療法の発達したのも止むを得ないのであると、然るに、私が創成したこの日本医術は、毒素の溶解排除の方法に成功したのである。


 現代医学が如何に進歩せりと誇称するも、皮下に溜結せる毒素に対し、切開手術を行はなければ、膿一滴と雖も除去し得ないであらう。然るに私の方法によれば、外部から聊かの苦痛をも与へずして、如何なる深部と雖も自由に膿結を溶解排除する事が出来得るのである。盲腸炎は一回の施術によって治癒し、歯痛は外部からその場で痛みを去り、他の如何なる痛みと雖も数回の施術によって無痛たらしめ得るのである。肺結核も完全に治癒せしめ得、癌も解消せしめ得るのである。其他疫痢も精神病も喘息も心臓病も痔瘻も医学上難治とされてゐる疾患のその殆んどは治癒せしめ得るのである。


 ただ私の療法で困難と思ふのは、医療を加へ過ぎた患者である。特に薬物多用者とレントゲンや深部電気、ラヂュウム等を幾十回も受用せられたものである。又、種々の療法を受けた結果、衰弱甚だしい患者に於ては、病原を除去し終るまで生命を保てないので、斯様な場合は、不成績の止むを得ない事があるばかりである。


 故に、発病後速かに本療法を受ければ、その悉くは全治するといっても過言ではないのである、従而、私の方では研究といふ言葉は無いのである。何となれば、病原も明かであり、治癒も確定してゐるから、其必要がないからである。


 そうして今一つ重要なる事は、私の医術は何人と雖も修練をすれば出来得るのである。医学的知識のない者でも、男女年齢の如何を問はず出来得るのである。而も修練期間は普通一個年位で、数人の医学博士が首を傾げた病気でも治癒するので、そのやうな例は日々無数にあるのである。私は、事実そのままを述べてゐるつもりであるが、或は誇張に過ぎると思はれはしないかと、それを心配するのである。(中略)


 私は、自分の研究の成果を余す所なく説いたつもりである。然し茲に断はっておきたい事は、私として西洋医学を誹謗する意志は些かも有たないつもりであって、只だ是を是とし、非を非とする公正なる見解の下に批判したつもりであるが、或は読む人により西洋医学に対し、余りに非難に過ぎると思ふかもしれない事を懼るるのである。(中略)


従而、此著書の論旨は一個の学説として読まれん事である。勿論有用な点があれば採り、無用と思惟する点を捨てればいいであらう。唯だ私としては自分の知り得たと思ふ事実を発表する事-それは国家に裨益する処大なりと信じたからでそれ以外に他意はないのである。そうして私の説が真理であるか非真理であるかは、時が判定してくれると思ってゐる


 次に、此著書は非売としたのである。それは如何なる訳かといふと、一般的に頒布するには、時期未だ尚早と思ふからである。何となれば、現在の西洋医学によって樹てられたる機構に対し、万一、何等かの影響を与へるとすれば、それは面白くないと思ふからでもある。従而、私の此著書を国家社会が要求する時期の必ず来るべき事を信ずるが故に、其時の来るまで待ってゐるつもりである。」          (「結 論」明医二  S18.10.5)




現代医学は対症療法というが、之程間違った話はない、即ち熱が出たから氷で冷す、痛いから神経を麻痺させて苦痛を免れるというやり方は、ホンの上面に現われた、謂わば病気の結果を対象とするのであるから、治る筈はないのである、何となれば凡ゆる病気症状は症状として現われるべき原因が、何処かに潜んでいるからである、此理によって本当に病気を治すには、症状などは末梢的なものであって、どうしてもその根本原因を探り当て、それを除去しなければならない事は余りにも当然である(中略)」

 

                       (「対症療法の可否」 S26.7.25)




「(中略)病なるものは表面に表はれた症状であって、其因が意外な処にあるものである。それを知らない医学は、症状さへ治せば病気は治るものと解釈してゐるので、真の医術ではないのである。それは全く人間は綜合体であるといふ事の認識がないからである。何よりも病気によって療法が異ひ、薬の種類も数多いといふ事は、よくそれを物語ってゐる。本当に治る医学とすれば、一つの方法で万病を治し得る筈である。


元来病気とは曩に説いた如く一種類となった毒素が各局部に固結するので、言はば病気の種類とは固結場所の種類である。それが分るとしたら療法も一つとなり、進歩の必要もない事になる。何故なれば進歩とは不完全なものを完全にしようとする過程であるからである。


此一事だけにみても、現代医学は如何に根本に未知であるかが判るであらう。此意味に於て、今迄進歩と思って来たのは、実は外面だけのそれであって、肝腎な病気は治らず、一つ所を往ったり来たりしてゐたに過ぎないのである。」 

 

                           (「人形医学」文創  S27.)




「(中略)医療とは病を治すものではなく、一時的苦痛緩和手段で、その為絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々、凡ての療法は固め手段ならざるはないのである。(中略)」

 

                     (「病気とは何ぞや」ア救  S28.1.1)