C-⑧ 心臓性神経衰弱

 

 

⑨ 浄霊における注意事項  7-⑨-3,その他の注意について

 

 3-A,病院での御浄霊について

 

「(最近病院より出張御浄霊の依頼を受けますが、病院では効果が薄いと思ひますが如何でせうか。

 

 全く効果が薄い。なるべく避けた方がよい。万止むを得ない時はやってもよい。触れなければよい。臨機応変にせよ。」

 

                  (講話集補  年月不詳)



   3-B,睡眠時の浄霊

 

「(眠っている人に対する御浄霊は或程度効果も少ないのでせうか。

 

 浄霊の効果は同じである。霊体と霊があり、浄霊は霊体を浄める。(中略)霊体はそのままある訳である。」 

 

                  (講話集補  S23.11.8)



  3-C,患者を寝かせての浄霊は

 

「(患者を寝かせて御浄霊しても宜しいでせうか。

 

 えゝ構ひません。病気によっては寝かしてやったらよい。寝かした場合でも手は五寸から一尺位離したらよい。」 

 

                 (「御光話」  S23.12.8)



 3-D,自分で腎臓を施術する時も           手を着けても良いか?

 

「いや、離してやればいゝですよ。こうやってね。(御手を後ろに御廻しになられる)私なんか始終やってますよ。若し触る場合にはこうすればいゝですよ。(人差指と薬指を台にして中指の先で御浄霊する方法を御示し下さる)

 

 (その場合、御光は指先から出るのでせうか、或は指紋の辺りでせうか?)

 

指紋の辺りですね、こうやってね。(再び御示しになられる)

 

 (眼の場合にもそれで宜しいでせうか?)

 

「いや眼は出来ないですね。眼は頭ですよ。眼の病気の時、眼だけやったんでは駄目ですよ、頭をよくやらなければ、今言った方法はおできだとか、一箇所が特に痛むとかいふ場合ですよ。(中略)」

 

               (「御光話10号」  S24.5.23)



 3-E,体的病気と霊的病気について

 

「之(その病気が霊的か、体的か)は病気によっては、はっきり判るけれども、はっきり判らない病気もある。私にも最初から判る場合と、暫く経たなければ判らない場合とあります。又、体的と霊的と一緒になってゐる場合もありますしね。

 

 こんな場合もあるから、之は知っておかねばなりませんね。肺病でね、最初は体的なたゞの浄化で、だんだん霊的になって来る事があります。これは体が弱って来たゝめに血が少くなって、それで霊が憑り易くなるためです。精神病、癲癇、小児麻痺などは頭から霊的として殆ど間違ひありません。唯、小児麻痺で、片方の足だけ動かないなんて言ふ場合には体的な為による事がありますがね。

 

肺病には霊的のものと、体的のものと、霊的と体的と一緒になったのとあります胃や腸の病気には霊的のは少いですね。それから、婦人病には霊的のが多くて、多くは生霊ですね。霊にも人間霊と動物霊とありますしいろいろです。まあ経験とその人の霊感の働きによって見分ける事ですね。」   (「御光話録6号」  S24.3.)



  3-F,取次ぎ者の掌の感覚         (暖かい場合と冷たい場合)

 

両方の手で浄霊するより一つの手でした方が光が強くなる。」

 

                (「講話集補」  S24.1.7)



(施術者の掌が暖かくなる)

 

斯うなるのは当り前である。火素が出るのである。暖かくなる程いい。とても熱くなる。」     (「講話集補」  年代不詳)



(施術者の掌)暖かくなるのが本当である。月の系統の人は最初は冷たいが、或時期へ行くと暖かくなる。冷たいのは或る期間だけである。」            (「講話集補」  S24.6.7)



(施術者の掌が暖かくなる)

 

手が熱くなるのは御光による。非常にいいのだから続けてやるとよい。」             (「講話集補」  年代不詳)



(施術者の掌が冷たくなる)暖かくなるべきものである。之は月の系統の人である。今迄は月の霊気で治った。それで冷たくなるのが本当だった。斯ういふ人は月の霊気が多分に残っている人で、月の霊気では自分が病気を引受ける事になる。」 

 

                 (「講話集補」  S24.1.7)



(施術者の掌が冷たくなる)之は逆である。暖かくなるのが本当である。やはり未だ毒があるからで、毒の性質により冷たくなるのと暖かくなるのとがある。今に暖かくなる。」

 

                 (「講話集補」  S25.1.27)



   3-G,入会の時期

 

「(中略)私に聞いてくれというのでしょうから、私の返事は"娘さんがなおったら信仰にはいりなさい。なおらないうちはよしなさい"です。

 

 信仰に入れてなおすという事は原則に外れていますなおってから信仰に入れるという事が本当なのです。あなたはその理窟は知っているでしょう。古い本に書いてありますし、又教えてもあります。

 

それは、命に関わる病気はなおってから信仰にはいるようにするのです。それから命に関わらない神経痛などは、病気がなおらないうちに信仰にはいっても結構です命に関わるようなのは完全になおって、とに角命の心配がないというくらいになおってから信仰にはいるのが原則ですから、今の人はまだ曖昧で命に関わる懸念があるから、そういう時に父親を信仰に入れるという事は間違ってます。

 

だからはいらない方がよいのです。そうでないと、"信仰にはいればなおると言うからはいったら死んでしまった、救世教というのはいい加減なものだ"という事になるから、骨折って結果が悪くなります。だから今言ったようにするのです。信仰でなおすというのが本当ではないのです。信仰は治療機械のようなものではありません。

 

"なおって有難い、こんなに丈夫になった、だからどうか自分もそういった困っている人を助けたい、それには信仰にはいって御力をいただきたい"というのが順序です。だからその順序が狂っていては、どうせ信仰にはいっても本当の順序にはなりません。それが理窟に合っているのです。だからなおりもしないのに信仰に入れるという事は理窟に合いません。また、信仰するからなおしてくれというのでは、とに角おかしな話です。それでは神様をいくらか軽く見ると言うか、そういう事になります。」 

 

              (「御垂示録21号」 S28.6.1.)