C-⑧ 心臓性神経衰弱

 

⑥浄霊の原理
「前項に述べた如き霊の曇の本質は一体何であるかといふと、これは人体保有の水素中に発生した毒菌である、(中略)此死滅法こそ言ふ迄もなく霊の力である。


 然らば浄霊とは、霊の曇り即ち毒素を人体放射能の力によって如何にして死滅させ得るかと言ふに、その放射能の原素は光の本質である火素から発生する光波である、之は恰度水素中の毒菌とは反対の元素で、一言にして言えば善と悪である、


勿論此光波は光の極微粒子で、此活力こそすばらしい殺菌力を発揮する、とすれば此光波の本質とは一体何であるか、今それを解説してみるが、此光波の極微粒子こそ、神霊からの放射能であって、本教の浄霊によって奇蹟を表はす現当利益の根源で、之に対し信徒も第三者もただ不思議の感に打たれるだけで、其原理を知りたい意欲は誰もが同様である事は、私もよく知ってゐた、故に之までとても大いに解明したかったのであるが時期尚早の為、今迄発表は出来なかったのである、処が愈よ時期切迫最早発表するの止むを得ない時となったのである。


私は浄霊の方法として現在行ってゐる方法は、光の文字を大書した紙片を与えるのである、それをお守りとして懐へ入れる事によって効果を発揮する、それは光の文字の墨色から強力なる光波が放射し、術者の身体から腕を通して掌から放射される、此放射力は数尺乃至数間位が最も適当としてゐる、そうして此光の文字から光波が放射されるといふ事は一体如何な訳かといふと、私の体から霊線を通じ個々の光の文字へ一瞬にして伝達するのである、


恰度放送の無線電波とよく似てゐる、私の霊体から、霊線を通じて光波が放射するとすれば、一体私の霊にはどういふ仕掛けがあるかといふ事になるが、それを知る事によって疑は解ける訳である、それは私の腹中に平常は直径二寸位の光の玉がある、之は見た人もある、此玉の光の塊から光波は無限に放射されるのである、


然らば此光の玉の其本源はどこにあるかといふと、之が霊界に於ける観世音菩薩の如意の玉から、私に向って無限光を供給されるのである、之が即ち観音力であり、不可思議力妙智力とも言はれるものである、如意輪観音が持し給ふ玉も之である。」

       (「浄霊の原理  -第三-」神医  S24.5.30)




「(中略)茲では浄霊に必要だけの神秘を書く事とする。

 勿論、観世音の御働きは仏教渡来からであるが、その当時から最近まではただ霊のみの御救ひであった、勿論人間が祈願する事によって利益を賜はるには賜はったが、それは甚だ微弱であった、その理由として光の原素は火素と水素の密合であるが地素が欠けてゐた、故に利益を与える場合二元素のみであったから、力が不充分であった訳である、処が霊界に於る大転換の時が迫り来った、聖書中の世の終り、最後の審判の時がそれである、


之が為最も強力なる絶対的救済力必要となった、此力こそ前述の如く火水土の三位一体の力であって、土の力とは物質の原素で、人間の体に当る、光が体を通過する事によって土素が加はり三位一体の力となる、即ち観音力である、之を判り易く言えば観世音菩薩の如意の珠から発揮される光素が、私の体を通じて観音力の発現となり、それが私から信徒の体を通じ浄化力となるのである。


 右の理を例を以て解説してみよう、例えてみれば、昔から病難除去の利益を戴くべく、観世音の画像又は彫像に向って祈願するに対し、今日、本教の信徒が行う浄霊の方が何倍かの利益を挙げ得るのである、それは画像や彫像からの光波では二元素のみで、肝腎の体の力が加はらないからである。


 今一つの理由として、常に私の唱える霊界の大転換である、之は昭和六年六月半ばからでそれ以前の霊界は水素が多く火素が少なかった、然るにそれ以後水素よりも火素の方が漸次増加しつつある一事である、尤も此時より数十年以前から転換は始まってゐるにはゐたが、それは火素が頗る稀薄であった事である、茲で光の強弱に就て説明するが、光の強いといふ事は火素が多いからで、電燈の燭光が多い程熱が強いのと同様である。(中略)」

         (「浄霊の原理  第四」神医  S24.5.30)




「(中略)抑々、霊界とは人間の五感に触れない無に等しき存在であるが、実は之こそ万有の根源であって、此事を知らなくては真相の把握は不可能である。(中略)


故に不可視の存在である処の霊界を識る前提として先づ空気界から説いてみるが、今日科学によって唱えらるる酸素とは火精であり、水素とは水精であり、窒素とは土精であり、之が三位一体で、此三原素こそ一切万有の本質である、極端な暑熱も極端な寒冷も中和の気候も、生物の生存に適合しているという訳は、神秘極まる三原素の活力によるのである、仮に此地球から水素を無にすれば一瞬にして爆発し火素を無にすれば一瞬にして氷結し、土素を無にすれば一瞬にして崩壊し零となる、之が真理である、此理を考える時、初めに説いた心臓、肺臓、胃の三機能の基本的意味が判る筈である、即ち心臓は霊界から火素を吸収する、その作用が鼓動である、肺臓は同じく水素を吸収する、その作用が呼吸である、胃は現界から土素を吸収する、その作用が食物の嚥下である、此理を一層徹底してみよう。(中略)


 以上の如く、火水土の三位一体の本質によって構成された人体である以上その病患を治癒するとしたら、その方法も三位一体の力に依らなければ合理的ではない筈である、之が本教浄霊の原理であって、それを説明してみよう。


 本教浄霊は観音力に依るとされている、観音力とは勿論菩薩から伝達される処の光である、然し之は霊的光であって、人間の眼には見えないが、眼に見える処の太陽・電燈・燈火等の光は光の体であるのである、そうして光の本質とはいう迄もなく火と水の密合であって、即ち火素と水素から成立っており、火素の多量であればある程光は力が加わるのである、然るに火と水だけの光の力だけでは不充分で、ここに土精を要する、土精が加わる事によって完全な三位一体的力の発揮となるから素晴しい治病力となり、その光波が人体を透過し、霊の汚濁は消滅され、それが体に移写して治病効果を奏するのである。


 右の具体的方法としては、私の常に説く如く「光」の大文字を書いた紙を畳んで懐へ入れさせる、光の文字には私の腕を通し、筆を通して、文字へ光波の精が滲透凝集する、(之は説明に困難だから仮に凝集の文字を用ゆ)そうしてその光の文字と、私の体内にある光の本元とが、霊線によって連係しており、絶えず光波を供給している、勿論私と観世音菩薩との霊線活動も同様であって、勿論人類救済の為の光波を無限に伝達され給うのである。


 以上の如く三位一体となって構成された人体である以上、三位一体の力による治病法こそ真理そのものであるといえよう、全く空前の治病力を発揮し得らるるのは当然というべきである、以上の原理の説明は非常に困難ではあるが、大体右によって或程度の概念を得たであろうと信ずるのである。」 

         (「内臓の三位一体と浄霊」  S24.8.6)




「今日世界広しと雖も、真に病を治す方法としては、我浄霊を措いて他には絶対ない事は断言するのである。そこで此原理を説くに当って、前以て知らねばならない事は、一体人体なるものの構成である。之に対し科学は唯物的にしか判ってゐないから、それを基本としてゐるのが現代医学である。


処が之は半面であって、本当は見へざる霊と見ゆる体との二原素の結合から成立ってゐるのである。此理によって病気とは体に現はれた現象であり、根原は霊にあるので、つまり表と裏との関係になってゐるので、此事が認識出来ない限り真の医学は生まれる筈はないのである。


では霊とは何かといふと、之こそ無色透明一種のエーテル体であるから、科学で把握出来ないのも当然で、科学はまだ其処迄発達してゐないからである。然し神示によれば立派に実存してゐる以上、将来科学が一層進歩した暁、把握出来るのは勿論である。


此理によって治病の場合、病の本体である霊の方を治さなければ、体の方が治る訳はないので、浄霊とは霊には霊を以て対するといふ、此平凡な理屈にすぎないのである。


 処が科学は唯物理念である以上、体のみであるから治らないのである。此意味に於て医学が如何程進歩したとても、結局無意味で徒労でしかないのである。故に之から生まれた医学としたら駄目に決ってゐる。又医療以外の凡ゆる療法もそうであり、只灸点だけは些か異うが、之は刺戟によって一時的患部の毒素を誘導し、苦痛緩和させるだけで、化膿を可いとするのも、それだけ毒素が減るからである。茲で浄霊の根本原理を徹底的に説いてみよう。


 前記の如く病気は霊に発生するといふ事は、最初局部的霊に曇りが生ずる。曇りの原因は薬毒が一旦体内に吸収され、血液が濁るので此濁血が霊体一致の法則によって、霊の方では曇りとなる。すると曇りは自然浄化作用によって、漸次局部的に濃厚分子が出来る。之が体へ移写して固結となる。


之が神経を使う所程集るのであるから、人間が神経を使う所といえば上半身で、頭脳を主とし眼、耳、鼻、口、咽喉等であるから、其処へ集中する場合、一旦一歩手前である肩、首の周囲に結集する。体では固結である。


今日如何なる人でもその部を探れば、必ず固結やグリグリがあるのがそれである。処が之に自然浄化が起ったのが感冒であるから、感冒に罹るや発熱によって固結は溶け液体となり、之が痰、水洟、汗等であって、痰を排泄する為のポンプ作用が咳であり、鼻汁が出る為の嚔であるのは此理によるのである。


 又、頭痛は頭脳内の毒素が熱で溶け、何れかに出口を求めやうとし、神経を刺戟する為であり、中耳炎、淋巴腺炎、扁桃腺炎、眼疾、歯痛等悉くそうである。又、彼の神経痛、関節リョウマチスもそうであって、人間が手足、指等を屈曲する為、その部に毒素固結するその浄化の激痛である。


以上ザッとかいたのであるが、要するに病気の苦痛は各局部に集溜固結せる毒素排除作用であるから、何等恐るる必要はない処か、之によって健康は増すのであるから、喜んで我慢すればいいので、而も病気苦痛は誰も知る通り、その半分以上は恐怖が手伝うので、右の理を知れば苦痛は半減する訳である。(中略)」

              (「浄霊の原理」医革  S28.)