C-⑧ 心臓性神経衰弱

 

9-④ 食事の方法
食餌の方法などといふ事は、実に、可笑しな話であって、方法もクソもありはしない。腹が減った時に、箸と茶碗で食へばいいのであるが、今日、文化が進んだ為に、反って間違った点が多々あるのを以て、本当の食餌法を説くのである。


 腹が減るから、飯を食ふといふ事は真実であるが、今は、そうではないのである。腹が減らないのに我慢して食ひ、美味い物を不味く食ふ人が多くなってゐるのである。又、食ひ度い物を食ふと言ふのなら、当然(アタリマエ)だが、食ひ度いものを我慢して喰はないで、喰ひ度くないものを我慢して喰ふといふ、不思議な文化人が多くなってゐるのである。


 本当から言へば、三度の食事の時間を決める位、間違った事はないと共に、又、食餌の分量を決める位間違ってゐる事は、之もないのである。考へてもみるがいい、千差万別、凡ゆる食物が消化さるる時間は、決して一定してはゐない。それぞれみんな違ってゐる。三時間で消化する物もあれば、五時間以上でなくては消化しないものもある。


それ故、食事から食事迄の間隔を一定すれば、腹が減り過ぎる事もあれば、腹が減らな過ぎる事があるのは当然(アタリマエ)である。腹が減り過ぎた時は結構であるが、腹が減らないのに、時間が来た以上食はなきゃならないといふ事は、初めに言った、食ひ度くないのに喰ふ訳なのである。それと同じく分量も腹が減れば余計食ふし、減らなければ少く食ふといふ事が、最も自然的であり、合理的ではないか。


例へて言へば、寒いから綿入を着、火鉢にあたるのであって、暑くなれば、浴衣になり、氷水を飲むのである。その如く、人生何事も一定に決められるものではないので、決めるといふ事が不可なのである。今日、医家が言ふ養生法に、食事の時間を定めて、食事の分量を定めよといふ事が、如何に間違ってをるかは判るであらふ。然し、そうは言ふものの、食事の時間丈は、不規則に出来得ない、勤人のやうな境遇者は止むを得ないから、せめて、食事の分量を伸縮するより致し方ないであらふ。然し、境遇上、出来得る人は、私の説く様にすれば、必ず胃が良くなり、健康が増進する事は保證するのである。


 次に、今の人は、食物に就て、非常に間違ってゐる点がある。それは、何が薬だとか、何が毒だとか言って、喰ひ度いと思ふ物を喰はないで、喰ひ度くもない不味い物を我慢して喰ふ傾向がある。それも、実際に合ってゐれば未だしもだが、飛んでもない間違った事を行ってゐる。


本来、凡ゆる食物は、神が人間を造り、其人間を養ふ為に、種々の要素を必要とする。故に、その必要の要素が形を変え、味を変えて、食物になってゐるのであるから、何が薬だとか、何が毒だとか、人間が勝手に決められるべきものではないのである。


詰り、其時喰べ度いと思ふ物が其時の必要なる物で、それが、其時其人に、薬になるのである。恰度、喉の乾いた時に、水が飲み度い様なもので、それは、其時水分が欠乏してゐるからである。食べ度くないとか、不味いとかいふ物は、其食物が必要でないからで、そういふ物を我慢して喰へば、毒にこそなれ、決して薬にはならないのである。であるから、最も理想的食餌法を言ふならば、喰べ度い時に、喰べ度い食物を、喰べ度い丈喰ふのがいいのであるから、少くとも、病人丈はそうしたいものである。


 次に、咀嚼に就て曰はんに、よく嚼(カ)む程いいといふ事は世間で言はれ、又、大方の人はそう信じてゐるが、之も間違ってゐるのである。之に就て、私は実験した事がある。確か拾余年前だったかと思ふ。アメリカにフレンチャといふ人があった。此人が作った、フレッチャーズム喫食法といふのがある。


出来る丈よく噛む-形がない迄、ネットリする位迄嚼んでから呑み込むといふ行り方なので、大分、其当時評判になったものであるが、それを私は、一箇月間、実行してみた。最初は、非常に具合が良かったのであったが、段々実行してゆく裡に、胃の方が少し宛、弱ってゆくのが感じられ、随而、何となく身体に力が薄くなった様な心持がしたので、之ではいけないと、元の食餌法に変えた所が、忽ち力を恢復したのである。


此実験に由って、よく咀嚼するといふ事は、胃を弱める事になり、大変な間違ひであるといふ事を知ったのである。然らば、どの程度が一番いいかといふに、半噛み位が一番いいので、その実行に由って、私は、胃腸は頗る健康であるのである。(中略)」

 

               (「食餌の方法」医講  S10.)




「今日、食餌の方法として医学で説いてゐる事は、非常に間違ってゐるのである。其誤りの第一は、食事の時間を決める事である。第二は、食餌の分量を決める事である。


 食物の種類により、消化時間が一定してゐない事は、営養学者も認めてゐる。三時間で消化する物もあれば、五時間以上を要する物もある。それ故に、若し、食事から食事までの間隔を一定すれば、腹が減り過ぎたり腹が減らな過ぎたりするといふ、実際に適合しない事になる。故に、腹が減れば早く食ひ、腹が減らなければ延すこそ合理的である。


それと同じ意味で、分量も定めないのが本当である。腹が減れば多く食ひ、腹が満ちれば少く食ふのが合理的であり、それが自然であるから、その様に調節すれば、胃腸は常に健全である事は言ふ迄もない。(中略)然し、境遇上、例へば、時間的労務に服してゐる者は、時間の調節は不可能であるから、せめて食物の分量だけでも調節するより致方ないであらふ。然し乍ら境遇上、可能の人は是非そうしたいのである。


 次に、今日の人間は食物に就て非常に誤った考を抱いてゐる。それは、何を食べると薬だとか、何を食べると毒だとか言って、食ひ度いと思ふ物も食はず、食ひ度くないものも我慢して食ふといふ謬りである。本来凡ゆる食物は、造化神が人間を養ふ為に、種々の物を造られたのであるから、如何なる食物にも人体に必要な養素が、それぞれ含まれてゐるのである。そうして、其営養素は、科学や試験管で測定するよりも、もっと簡便な正確な方法がある。


それは、何であるかと言ふと、人間自体が其時食べ度いと思ふその意欲である。何故、意欲が起るか。それは、其時其食物が肉体に必要だからである。故に、之程正確に測定される機械は無い訳である。恰度、喉の渇いた時に水を欲する様なもので、それは其時水分が欠乏してゐるからである。故に、食べ度くないとか、不味とか言ふのは、其食物が其時必要でないからで、それを我慢して食えば、反って毒にこそなれ、薬にはならないのである。


満腹の時、如何に嗜好する物も、食ひ度くないといふのは、今は、食物一切、不要といふ訳である。故に、最も理想的食餌法を言ふならば、食べたい時、食べたい物を、食べ度い丈食ふのが一番良いので、少くとも、病人だけはそうしたいものである。


 又、近来病人に対し、芥子(カラシ)の様な刺戟的の食物を忌むが、之も大変な誤りである。之も人体に必要あればこそ、神が造られたのであって、辛味、香味などの味覚は、良く食欲を増進させるからである。又、今日の医学は或病気に対しては塩を制限し、或病気に対しては糖分を禁止するが、之等も誤ってゐる。成程、それによって一時は軽快に赴くが、持続するに於て逆作用を起し反って身体は衰弱し、病気は悪化するものである。


 次に咀嚼に就て言はんに、良く噛む程いいといふ事は世間でも言ひ、又、多くの人もそう信じてゐるが、之も間違ってゐる。(中略)良く咀嚼するといふ事は、胃を弱める結果となり、大変な間違ひであるといふ事を知ったのである。然らば、どの程度が一番良いかと言ふのに、半噛み位が一番良いので、その実行によって、私の胃腸は爾来頗る健全である。


 次に、食物に就ての概念を知ってをく必要がある。それは、魚でも、野菜でも、多く収れるものは、多く食ふべきもので、少なく採れるものは、少く食ふのがいいのである。


 例へば、夏季、茄子は非常に多く生る。又枝豆は、夏季だけのものである。故に、茄子と枝豆を、夏季は出来るだけ多く食ふのが健康上いいのである。茄子を食ふと、痰が沢山出るといふのは、体内の汚物を、排除する作用があるからである。又、秋は、柿を出来る丈食ふべきである。柿は冷えるといふが、冷えるのではなく、洗滌をする力があるので、それが尿の多量排泄となるからである。此理に由って、特に秋の秋刀魚(サンマ)、松茸、冬の密柑、餅等などもよく、春の菜類、筍等もいいのである。


 次に、梅干に就て、特に注意したいのである。之は病人には絶対に不可ないのである。元来梅干なるものは、昔、戦争の際兵糧に使ったものである。それは、之を食ふと消化が悪いから、少量にして腹が減らないといふ効果に由るからである。故に、ハイキングなどの弁当用としては、空腹を予防するからいいのであるが、運動不足である病人には甚だ不可なのである。之は、酸味が強過ぎる為、胃の消化に対し、非常に故障となるものである。」

 

          (「食餌の方法と原理」医書  S11.4.13.)




栄養食ですが、之は、現在程度の学問では未だ判らないと思ふのであります。何となれば、飲食物は、人間の口から入って胃へ行き、それから腸或は肝臓、脾臓、腎臓など、各種の消化器能を経るに従って、最後は其成分が一大変化をしてしまふであらふ事です。如何なる食物と雖も、原質とは全く異ふ迄に変化するでせう。


 青い菜葉や白い飯を食って、赤い血が出来、黄色い糞が出来るといふ事だけを考へても、その変化力は想像し得らるるのであります。故に、滋養物を食ったから滋養になると思ふのは、消化器能の変化力を算定しない訳であります。試験管内では、よし滋養物であっても、人間の体内は全然違ふべきで、血を飲んでそのまま血になるやうに思ってるが、それはまるで筒抜のやうなもので、消化器能がないやうな理屈であります。然るに実は-消化器能なるものは、一大魔術師であります。


 本来からいへば、食物は未完成な物即ち原始的な物程霊気が濃いからいいのであります。

 

 食物の味は霊気が濃い程美味であります。新しい野菜や肴は、霊気が発散してゐないからそうであります。


 栄養学上栄養でないとしてゐる物を食っても立派に生きてゆける事実は、よく見受けるのであります。曩に栃木県に松葉ばかり食ってゐる六十幾才の老人に私は会った事がありますが、普通人よりも元気で、色沢(イロツヤ)も好い。之等は栄養学から言ったら何と解釈するでありませうか。


 消化器能の活動といふものは、大体食物が入ると必要なだけの栄養素と必要なだけの量に変化させるもので、厳密に言へば、食物の栄養素五分、消化器能の変化活力五分の割合でありますが、それは消化器能の方が主体なのであります。何となれば、消化器能さへ完全であれば、粗食と雖も栄養に変化させますが、如何に栄養を摂っても、消化器能が衰弱しておれば栄養不足になるのは誰も知る事実であります。之を観ても、栄養は従で、消化器能の方が主である事が明かであります。


 元来、食物なるものは神が人間を生存さす為に造られてあるものですから、その土地で採れた魚菜を食ふ事によって、自然に栄養に適してゐるのであります。


 又、種々な種類の食物があるのは、種々な物が人体に必要だからであります。(中略)ヴィタミンABCだの、含水炭素所ではない。将来幾十幾百の栄養原素が発見されるか判らないが、最後は嗜好する種々の物を食へばそれで良いといふ、単純な結論に帰納する-と想ふのであります。


然し、食欲を増進させる為-調理法の進歩は希って歇まないのであります。それですから、凡有る食物は皆必要があるからで、「其時食べたい物を食ふ」といふのが原則で、食べたいといふ意欲は、其時身体の栄養にそれが必要だからであります。「良薬口に苦し」などと謂ふのは大変な誤りで、美味しい物ほど薬になるのが本当であります。


 それだのに何が薬だから食へとかいって、不味いのに我慢して食ふのは間違っております


 私の研究によれば、世界中の人類の食物の中で一番良いのは日本食で、之が一番栄養が多く、従って長生きが出来るのであります。今度の国際オリンピックの選手は、特に日本食品を持って行ったそうです。今迄彼地へ行って、彼地のものを食ふ為にいつも弱るんだそうです。之は慣れないといふ点もありますが、確かに日本食は良いので、吾々は日本食こそ「世界一の栄養食」と思ふのであります。

 

 其訳は、霊気が強く、血液を濁らせる点が寔に尠いからであります。


 次に「食事の時間」とか「食物の分量」を決めるのも間違っております。何となれば、食物は各々その消化時間が異ってゐる。つまり三時間もかからなければ消化出来ないものもあれば、五時間も六時間もかからなければ消化出来ない物もあります。


 又、食事の分量を決めるといふ事も間違っております。何故なれば、腹の減った時には余計食ひ、余り減らなければ少し食ふのが自然であり、それが衛生に叶ってゐるのであります。


 食事の時間を決めるのは、ちょうど小便する時間を決めるやうなものであります。

 

 「食べる分量」を決めるのは、一年中、浴衣ばかり着てゐるやうなもので、夏は浴衣を着、冬は綿入を着て調節をしなければならないのであります。


 理想的に言へば人間は「食べたい時に食べたい物を食べたい分量だけ食ふ」といふのが一番衛生に叶ふのでありますから、せめて病人だけはそうしたいものであります。然し勤務などの関係で時間の調節が出来ない人は、先づ分量で調節するより仕方がないでありませう。腹八分目といひますが、之も間違ひで、食べたいだけ食べて差支へないのであります。


私は、美味しくなければ決して食べない主義ですから、食物の不味いといふ事は全然ない。

 

 そして食べたい時腹一ぱい食べ、腹の減る時はウンと減らすので、ウンと減らせば胃腸の中はカラカラになりますから、瓦斯発生機ともいふべき醗酵物は聊かもない。そこへ食物が入るから消化力の旺盛は素晴しい。此様に、食物を美味しく食べて、胃腸が健全になるといふ-結構な方法を知らない人は、私の行ってゐる事をお奨めするのであります。

 

 胃病の最初の原因は酸酵物停滞がその重なるものであります。


 私は十年以上二食主義を実行しておりますが、非常に結果が良い。此方法は、都会人には適してゐると思ふのであります。其訳は、霊気が強く、血液を濁らせる点が寔に尠いからであります。


 次に、食物には動物性食餌と植物性食餌とありますが、大体に両者半々に食ふのが原則であります。


 魚  鳥      五分            野  菜      五分


 然し、男子は、活動する場合は、魚鳥七分、野菜三分位迄はよろしい。やむを得ず獣肉を食はなければならない人は、一週間に一回位なら差支へないのであります。

 

 又、良質の血や肉になる栄養は野菜であり、欲望とか智慧の出る栄養は魚鳥にあります。


 年を経(ト)って欲望の必要のない人は植物性を多く摂るのが良いのであります。婦人は欲望や智慧が男子程要らないから、野菜を多く摂る方がいい。野菜七分、魚鳥三分位が最もいいので、人の女房でありながら、家を他所にし、家庭の事を顧みないやうな婦人は、その原因として魚鳥や肉食の多量といふ事もあるのであります。


 又肉食が多いとどうしても性質が荒くなり、闘争や不満破壊性が多分になります。彼のライオン、虎の如きがそれであり、牛馬の如き草食動物は柔順であるにみても瞭かであります。

 

 又米は七分搗きが一番良い。胚芽米よりも七分搗きの方が良い。総て物は、中庸が一番良いので、玄米は原始的過ぎ、白米は精製し過ぎる。大体五分搗が良いのですが、祖先以来白米を食ひ慣れてゐるから、白米に近い七分搗き位がちょうどよい訳であります。


 どういふ物を余計食ひ、どういふ物を少く食ふのが良いかといふと、甘い辛いのない物を余計食ふのが原則であります。それで米や水の如きものを一番余計に食ふやうに自然になってゐるので、中位の味は中位に食ひ酸い物、辛い物、甘い物等の極端な味の物は少く食ふのが本当であります。病人などによく刺戟性の辛い物を禁じますが、吾々の解釈は異ってゐる。必要がある為に辛い物を神様が造られてあるのであります。香味、辛味は非常に食欲を増進させる効果があるので、病人と雖も少し宛食ふのが本当であります。


 又何が薬だとか、何が滋養が多いなどいふのも間違ってゐるので、如何なる食物と雖も悉く人間に必要の為に造られてある。それを不味いのに我慢して食ふのも間違ってゐるし、食べたいのに食べないのも間違っております


 又、滋養剤などもあまり感心出来ないのです。何となれば、食物は精製する程滋養が薄くなる。それは霊気が発散するからであります。霊気を試験管で測定出来る迄に未だ科学が発達してゐないのであります。


 飲酒――之も飲まぬ方が良いのであります。酒は百薬の長などと言ひますが、場合によっては五勺か一合位はいいが、大酒は悪いに決っております。之は事実ですから、説明の必要はないと思ひます。


 又煙草は吹かすのは可いが喫み込むのはわるい。吹かすのは鼻から香を吸って脳を刺戟するから頭をよくする。考へ事をする時など実に効果があります。

 

 世間頭の良い人で煙草を吹かす人が多いのは事実でありますから、頭の良くなりたい人は、煙草を吹かすと宜しいのであります。


 運動は、如何なる病気でも、苦痛でない限りするほど良いのであります。

 

 空気は、無論、浄い空気を吸った方がよいのですが、今日の世間でいふ程、重大な影響はないのであります。埃を吸っても害は僅かで、何より肝腎なのは霊気であります。」

 

             (「栄養食に就て」療講  S11.7.)




「(中略)食物も同様で、食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食う。之が最もいいのである。薬は勿論不可ないが、食物としても薬だからとか、滋養になるとかいって、欲しくないものを我慢して食ったり、欲しいものを我慢して食わなかったりするのも間違っている人体に必要なものは食べたい意欲が起ると共に、食べたくないものは食べるなという訳である。


そうして結核に特に悪いのは動物性蛋白である。少しは差支えないが、成可野菜を多く摂る方がよい。処が今日の医学は、栄養は魚鳥獣肉に多いとして奨めるが、之が大変な誤りで、必ず衰弱を増すのである。本来栄養とは植物性に多くある。考えてもみるがいい、動物性のもののみを食っていれば、敗血症などが起って必ず病気になり、生命に拘わる事さえもある。


それに反し菜食はいくらしても健康にこそなれ、病気には決して罹らないばかりか、長寿者となるに見ても明かである。之に就て私の体験をかいてみるが、私は若い頃結核で死の宣告を受けた時、それ迄動物性食餌を多量に摂っていたのを、或動機で其非を覚り、菜食にしてみた処、それからメキメキ恢復に向ったので医学の間違っている事を知り、薬も廃めて了い、三カ月間絶対菜食を続けた処、それで病気はスッカリ治り、病気以前よりも健康体となったのである。(中略)


 今一つは喀血の場合である。之こそ菜食が最もいい。以前斯ういう患者があった、肉食をすると其翌日必ず喀血するが、菜食をするとすぐ止まるという、実にハッキリしていた。之でみても菜食のよい事は間違いないのである。」

 

           (「自然を尊重せよ」結革  S26.8.15.)




「(中略)食は穀物、野菜、獣鳥肉等々、其土地に生産された物を成可食うようにし、季節もそうだが其土地に多く生産されるものは多く食うようにし、中位は中位、少ない物は少なく食うようにすればいゝので、之が自然である。一例を挙げれば米麦の如きも甘い辛いの味がないが、年中食っても飽きない言うに言われぬ味がある。だから斯ういう物は一番多く食えばいゝのである。又強い味のもの例えば極く甘い物、塩辛い物、苦い酢っぱい辛いというような刺戟の強いものは、少なく食えばいゝので、之が完全な食餌法である。


 それを知らない人間は、何が栄養になり、何が薬になるとか、ヤレ鉄分を含んでいるから可いとか、蛋白がどうだとか言って、薄っぺらな机の上の学問で作り上げた理屈を信じて、好みもしないものを食ったり、食いたいものを我慢して食わなかったりするのを衛生に適うなどとしているのだから全く馬鹿気た話である。」

 

       (「相応の理と其他の事」栄181号  S27.11.5.)




「(中略)西洋医学と日本医学とは、全然相反するものにして、其差は日の出づる国と日の沈む国との差ある程の相違である。


 日本と西洋とは、それ程の差があるのである。私の言葉と医者の言う事と、全然反対に行えば良いのである。真の健康体を欲するならば、一日一回お茶漬を食する事、お菜は香のもの、特に菜葉の漬物が良い。これを行えば、諸々の病毒を去り、健康体となる事を得る。特に菜食主義が一番よろしいのである。肺病又は諸々の薬の中毒等を去るにも至極よろしいのである。」

 

                                  (「御講話」  S10.4.17.)




「(中略)偏食をいけない様に思いますが、決してそんな事はないですよ。偏食は結構ですよ。医学の方でいけない様に言うんですが、本当言うと偏食が健康に良いんですよ。一番、偏食でいいのは鳥ですね。カナリヤなんか稗(ヒエ)許り食べている。偏食と言うのは、体が要求するんですからね。要求するのは、必要だから要求するんです。結構だから、偏食は大いにやりなさい。人間は偏食するのが健康になるんです。」   (「御教集7号」  S27.2.15.)




「(中略)要するに自然です。自然というのは、自然農法ばかりではないのです。病気に関しても自然です。だから食べたい物は食べたい丈食べれば良い。処がよく今迄の習慣で、食べたい物を、よく毒だからいけないとか、食べたくないのにそれは病気に薬になるから食べろというのは間違です。食べたいのは身体が要求しているのですから――咽喉が乾いて水を呑む様なものですから、そこで要求している通りにやれば良いのです。(中略)


古い信者なのですが、そこ迄いくと、実に何んと言つて良いか分らないです。そういう様な工合で何時も言う通り常識です。凡て美味いという味は人間に必要だから神様は作られたのです。だから不味い物を我慢して食べてはいけない代りに、美味い物は大いに食べて良い。それから、よく偏食がいけないという事を言いますが、偏食がいけないという事はないのです。あれは偏食が其人に大いに必要だからするので、それで良いのです。で、その必要が無くなれば普通になるのです。(中略)」  (「御教集13号」  S27.8.26.)




「近来日本に於ける乳幼児の健康が非常に悪く、(中略)一日も早く解決を要すべき重大問題である。それには先づ原因が那辺にあるかを発見しなければならないが、現在医学上に於てその原因なる物は殆んど的外れである以上、何程骨を折っても予期の効果は挙げ得られないのである。


 然らばその原因はどこにあるのであらうか、(中略)それに就て当時私の扱った病児や弱体児童の母親に斯ういった事がある。「あなたの御子さんは、日本人の子ですか、西洋人の子ですか」と又、言葉を次いで「日本人の子は、先祖代々日本流の食物で育って来たのであるのに対し、急激に西洋の児童の食物や育て方をするから、それが弱い原因である」との注意を与へたのである。


処で最も滑稽なのは、在来の日本菓子を食べさせない、特に餡を嫌ふ母親がある。「何故餡を食べさせないか」と聞くと「お医者は疫痢の原因になるからいけない」との事で、私は「それは理屈に合はないではないか、小豆は便通に良いとしてわざわざ煮て食ふ程である、而もそれを精製し、砂糖を混え液体としたのであるから、どこに悪い点があるか」といふたのである。


又私は言葉を継いで「お医者さんは西洋の本を読んで直訳するので、西洋には餡がないから本に書いてない、それで言ふのである。従而お医者さんが言ふ病人の食物なども西洋にある通りの食物、即ち牛乳、オートミル、バター、林檎、ジャガ芋等によってみても肯くであらう」。


 以上の理によって成人するに従ひ、西洋流の食物を漸次的に混ぜるやうにすればよい、先づ乳幼児から五六歳迄は、日本流の食物で育てる方が確かに健康にいゝ事は、私の幾多の経験によって断言し得るのである。(中略)」 (「乳幼児の健康」自叢十  S25.4.20.)