8-③ 痛苦(痛み)と急所
「(中略)病気の苦痛には、二つの意味がある。一つは、悪を再びせざる戒めと、も一つは、肉体自身の治病工作のそれである。であるから、発熱とか痛みとかは、病気を治癒する工作であり、活動であるから、其苦痛は、一歩々々否一刻々々、病を軽減しつつあるのである。然し、何事にも最盛期があるので、病気に対する、その治病工作とても、峠があり、クライマックスがあるのであるから、最早苦痛に堪えないといふ時が、必ずあるものである。
然し、そういふ苦痛時は、永く続くものでは決してない。何故なれば、そういふ激しい苦痛の時は、治病工作が白熱的であるからで、そういふ時こそ、大いに、病気は治癒されつつあるのである。然し、今迄此事を識り得なかったので、病気の苦痛は、病気が悪化する為と誤解して、苦痛が強ければ強い程、非常に不安を感じ、医療を受け様とするのである。何ぞ知らん、事実は反対であって、苦痛が強ければ強い程、それは治りつつあるのである。然るに、西洋医学は、元来が対症療法であるから、専ら病気の苦痛を軽減するに努める。(中略)」
(「西洋医学の誤謬と日本医学の建設」医講 S10.)
「痛みは何の為であるか、之も医学では不明である。それは私がいつも言ふが如く、病気排除の自己工作が、神経を刺戟するのであるから、之を放置してをけば、案外速く治癒するのである。然るに、此理を知らないから、氷冷、塗布薬、注射、湿布等を行ふのであるが、之等は悉く治癒の妨害である。
成程多少とも痛みは緩和するが、非常に治癒が延びるのであって、時には予想外の不利を醸し、生命の危険に迄及ぶといふ実例さへあるのである。且つ痛みの甚しければ甚しい程治癒工作が猛烈に進行してゐるのであるから、激痛は長時間は滅多に無いのである。然し、我療法によれば、すべての痛みの解消は、驚くほど迅速であると共に、対症的でなく、根本療法であるから、痛みの解消は病気全治となるのである。(中略)」(「痛みと熱」医書 S11.4.13)
「(中略)次に、痛みといふものは何であるか、吾々の方の解釈では毒素の排除作用が神経を刺戟するのであります。
故に、排除しよふとする活動力が旺盛であればある程-痛みが激しいのであります。ですから痛みがある程-治る工作が迅速に進んで居る證拠であります。故に、熱があり、痛みがあれば、其時こそ最も旺んに治りつゝあるのであります。
随而、此場合解熱法を施しますと、熱といふ溶解作用が停止される。即ち治るべき作用を停止されるから一時苦痛は楽になるが病気の治癒は遅れる事になるのであります。
然し、衰弱してゐる人でも、割合高熱のある場合もありますが、之は病気の方が強過ぎるのであります。
又、病気があっても割合熱が出ないのは、其病気が割合軽い場合か、又は第一種健康体の人で、浄化力が特に旺盛だからであります。第一種の人は熱を必要としない程に浄化力が強盛であります。でありますから、凡有る病気は苦痛でない限りは身体を活動させて差支えないのであります。それは安静にする程活力が弱まり、従而、発熱が減少するからであります。
例へば、肺病の治療は、日本では近来-絶対安静療法を採って居りますが、之等は反対に運動をすれば活力が起って、浄化力は旺盛となり速く治るのであります。(中略)」
(「痛みと熱」療講 S11.7.)
「(中略)此三毒(天然痘毒素、薬毒、尿毒)共、其浄化作用の場合、古い程痛苦が軽く、新しい程其反対である。従而、然毒に因る痛苦は比較的緩和であって、尿毒による痛苦は然毒よりも大体強いのである。然し、薬毒に於ては、其痛苦が前二者に比して断然強いのである。然し、薬毒に於ては、漢薬と洋薬とは異なるのである。
例へば、漢薬は鈍痛苦であって範囲は洪(ヒロ)く、洋薬は激痛苦であって局部的である。然し孰れも、服薬に因る痛苦は、或程度に止まるものであるが、注射に因る痛苦に至っては、其激烈なる言語に絶するものすらあり、是等は、当事者の恒に見聞する所と思ふのである。
そうして、此痛苦とは如何なる原理かといふに、浄化作用とそれの停止作用との衝突の表はれであるから、最も激しい痛苦といふ事は、最も浄化作用の旺盛なる身体へ、最も強力なる毒素によって停止せんとする大衝突であるといふ訳である。此理に由って痛苦の激しいのが、老人でなく青壮年に多いのである。故に、此理がはっきり呑込む事が出来れば、病気で死ぬといふ訳も判るのである。即ち、浄化作用停止による苦痛の為の衰弱が主なる死の原因であるといふ事である。」 (「三毒」医試 S14.)
「痛苦即ち痛みなるものは如何なる訳であるかといふに、前にも述べた如く浄化作用の発熱によって凝結毒素が溶解され、液体となった毒素が、何れかに出口を求めて、その方向に進まんとするその運動が、筋肉の神経を刺戟する。-それが普通の痛みの原因である。
以上のやうな痛みの症状は、盲腸炎、急性腹膜炎、急性腎臓炎、頭痛、歯痛、中耳炎、リョウマチス、各種神経痛等、実に多種多様である。又、骨膜炎と名付けられてゐる骨に関する痛みの原因は、骨膜に凝結した毒素が浄化によって溶解し、それが移動する場合、骨膜から筋肉へ進み刺戟するのである。
又、骨膜の裏面にある毒結が、浄化溶解して表面へ進出せんとして、骨そのものに極微な穿孔をする。その竇(アナ)の数は毒素の量によって多少があるのである。勿論、その数の多いほど激痛である。肋骨カリヱス、中耳炎、歯痛等其他骨髄炎といはれるものはそれである。此無数の穿孔ある場合、医家は骨が腐るといふのであるが、それは誤りである。何となれば、毒素が溶解除去された後は、旧(モト)通り完全になるからである。
次に、特殊の痛み、例えば、手指の?疽(ヒョウソ)、足指と其附近に於ける脱疽の痛み、痔瘻等の痛みは勿論、浄化作用による毒結の排泄であるが、之等は非常に猛毒であるから激痛である。之は第一浄化作用を俟たずに、第一、第二、両浄化作用が同時に起るのであるから、浄化力旺盛な青年期に多いのである。
之等の病気に対して、医家は漸次隣接部に移行腐敗するといふが、之も全然誤診である。私の多数の経験によれば、或程度毒素が集溜すれば、それ以上増大する事は決してないのである。そうして、充分集溜腫脹して自然穿孔され、そこから膿汁毒血が排泄されて完全に治癒するのである。然し乍ら、その症状は一見腐敗する如く見ゆるので、医学に於ては、腐敗すると誤ったのであらうが、その為に切開手術を行ひ、一種の不具者になるのである。繰返していふが、私の永年の経験によって、脱疽と?疽(ヒョウソ)は、腐敗はしない事をここに改めて断言しておくのである。(中略)
右の如く、病気による痛苦には多種多様あるのであるが、その原因の殆んどが薬毒の為である。薬毒の種類によって、痛みや症状が異ふのである。
そうして私の経験によれば、漢方薬は広範囲である事と鈍痛が特色であり、洋薬は多く鋭痛で、稲妻型、針刺型、錐揉(キリモミ)型等が多く、又局部的であるのが、特異性とでもいふべきである。
特に、注射の薬毒は激痛の原因となることが往々あるのである。
次に、薬毒以外尿毒の痛みもあるが、之は多く軽痛である。又、然毒は殆んど痛みがないので、医学は先天性黴毒と思ひ誤ったのであらう。」 (「痛苦」明医二 S17.9.28)
「又痛苦は、その局所に溜結せる毒素が溶解し液体毒素となって排除されようとして運動を起し神経を刺戟するからである。」
(「病気の真因」明医一 S17.9.28)
「(中略)私の長い経験によれば、凡ゆる痛苦は悉く薬毒の結果であって、痛みも発熱も不快感も疲労も神経衰弱も原因はそれであり、全身的新陳代謝の衰耗も機能の弛緩も咸(コトゴト)く薬毒の結果である。従而、人間の健康の良否も病気の軽重も"薬毒の多寡に因る"といふも過言ではないのである。」
(「薬毒」明医一 S17.9.28)
「痛苦即ち痛みなるものは前にも述べた如く、浄化発熱によって固結毒素が溶解され液体化され、それが何れかに出口を求め、その方向に進まんとする運動が筋肉の神経を刺戟する為である。
痛みの症状は盲腸炎、急性腹膜炎、急性腎臓炎、胃及び腸に痙攣、頭痛、歯痛、中耳炎、リョウマチス、各種神経痛等実に多種多様であるが、多くは右の理に因るのである。
又骨膜炎、骨髄炎、肋骨カリヱス等骨に関する痛みの原因は骨膜に凝結した毒素が浄化溶解によって表面へ滲出せんとし、骨そのものに無数の極微な穿孔をする、その為の激痛である。歯根膜炎、中耳炎等もそうである。右の穿孔の窖(アナ)は病気治癒後速かに原形に復すのである。此場合医家は往々骨が腐るといふが、之は誤謬である。
次に〓疽(ヒョウソ)及び脱疽の激痛がある。之は患部が暗紫色に腫脹し、漸次拡充する。その状態が恰度腐れゆく如く見ゆるので医家は腐敗となし一刻も速く切断するを可とするが、之は大いなる誤謬である。何となれば右の状態は或程度拡充してから必ず停止するものであるにみて腐敗でない事は明かである。
其他火傷、刀傷、打撲傷等もあるが、之等は病気と異り、自然治癒するのである。然し之等に対し、消毒薬の塗布等を行ふ為に、容易に治癒し難くなる例は非常に多いのである。斯かる場合薬剤を廃し、患部を清水に洗ふだけで自然によく治癒するのである。
既記の如く痛苦の原因は悉く薬毒に因るのであるから、多種多様の痛みは多種多様の薬剤があるからである。本医術に依る時、痛苦は速かに治癒する。特に〓疽(ヒョウソ)、脱疽等の如き激痛と雖も一回乃至三回位にて無痛となり、患者は驚喜するのである。」
(「痛苦」天 S22.2.5)
「(中略)凡ゆる手術の際の消毒薬が色々な痛みの原因になる事も、非常に多いものであるから、身体の何処かに激しい痛みや、執拗な痛みのある場合、既往の手術を想い出せば必ず肯くであろう。(中略)」 (「薬毒の恐怖」 S27.9.10)
「(中略)従って人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、凡て相応の理によって浄化が行われるのである。(中略)」
(「御神意を覚れ」 S28.12.2)
「(中略)痛みと言うのは、全部薬ですからね。だから、人間薬を止(ヤ)めれば、痛みは無くなる――苦痛はね。人類から薬を無くすれば、痛みと言うのは無くなるんです。薬が痛みをつくつているんです。(中略)」 (「御教集4号」 S26.11.1)
「(中略)祖先で薬をのんだ人は毒素が多い。浄霊によれば毒素は減る。濃毒も浄霊すると白くなり、透明となる。それで痛みがなくなる。毒素が溶けて出ようとするのが痛みである。浄霊すると排出すべき膿が薄くなり、力がなくなり、痛みはなくなる訳である。」
(「講話集補」 S24.5.25)
「治るから痛むのである。固めるから痛みが止った。それが解けたので痛む。痛みとても或程度である。全部薬毒である。止めようとすれば毒物をウンと塗ればいい。(中略)」
(「講話集補」 年代不詳)
「(中略)痛みは全部薬毒で、薬毒でない苦痛は殆ど霊的である。大抵痛みも痒みもない。痛みの時は何の薬かを判断する。」
(「講話集補」 S24.7.17)
「(中略)(日本脳炎は)いくら痛みが強くても生命に障りはない。痛みは浄化作用である。固まっていれば浄化は起らぬ。溶けて出る時神経を圧迫して痛む。骨を通過する時は一番痛む。肋骨カリエスなどは、肋骨の裏の毒が骨を通過して出る。歯の痛みは、歯根膜にある毒が骨を通って出る。胃痛は殆ど服み薬である。大抵仰向けに寝るから背中に溜る。右背を下にするのは右背に溜る。一旦固まって溶ける。そして元の胃へ戻る。薬の原素は固まったままである。
痛みの患者には医者はモヒの注射をする。モヒは食欲をなくすから、段々衰弱して死ぬ。(中略)」
(「講話集補」 S23.8.16)
「又節々の痛みとは、人間は常に手足を屈折するので、関節へ固まり、それの浄化が痛みである。」
(「病気と苦痛」 年代不詳)
《浄霊》 患部を始め、毒素の流れに沿って急所を発見する。