C-⑧ 心臓性神経衰弱

 

 

⑥-1,豊富な知識を身に付ける

 

「(中略)それには一番の武器は浄霊ですから、そこで病気を治すという事が根本ですから、そのつもりで、だんだん病気についての知識……と言っても、これは医学的でなく、神様の方の病気に対する知識というものを豊富にしなければいけません。何時も言うとおり、急所を見付けるという事は、やはり知識が豊富でないと見当がつかないわけです。ですから病気に対する研究会とか座談会というものもやると結構だと思います。

 

それから又病気に関しての分らない事は、書面でもよいですから聞くようにする事です。というのはつまり本当の医学霊的医学新しい医学をつくるようにしなければいけないと思います。それは医学と違って、そう解剖学的に知らなくてもよいのです。勿論、ただ霊的ばかりでも、治るには治るが暇がかかるわけです。同じ浄霊するにもピタッと急所に見当がつけばずっと早く治ります。それを、見当はずれなどをやっていると非常に暇がかかるわけです。

 

だから霊的と体的の両方の事をよく知った方がよいです。時々質問などで、分りきったような事を質問する人があります。この間の質問事項などは、何処の支部長でも分るような事を質問したりしてました。そういうのは"支部長に聞け"という返事をしました。それから又御神書に幾つも書いてある事などを質問するのがあります。それから又あんまり分りきった事、つまり一年生の生徒が質問するような事を質問するのですから、如何に病気に対する頭が貧困かという事が分ります。ですから教師などは病気に対する知識をできるだけ磨くようにしなければいけないと思います。(中略)」

 

                (「御教集25号」 S28.8.5)




   ⑥-2,一番の事は智慧正覚

 

「(中略)それから向上という事は、一番の事は智慧正覚です。いろんな事が分る事です。分ると言っても間違った分り方ではいけません。その標準は御神書です。御神書に書いてある事が大体"なるほど"と思えれば、それは智慧正覚が大分上がっているのです。"どうも分らない"というのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智慧正覚が向上しているのです。病状をみて、この人はこの病気だという事を当てれるのは、余程智慧正覚が上がってなければならないです。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分るというのなら智慧正覚が向上しているのです。(中略)」

 

               (「御教集22号」 S28.7.1)



「(中略)病気などは特にそうですが、急所の発見という事が一番肝腎なのです。それからこの前も言ったとおり、理窟に合わない事はいけないと言ったが、いくら一生懸命にやっても、その人を浄霊すべき条件が窟屈に合わないと、いくら一生懸命にやっても治らないのです。

 

これはこの前話したから大体分っているでしょうが、その理窟に合わない事という一つの条件というのは、神様の事を知った人と全然知らない人とは大変違うのです。知らない人は大変無礼な事をしても、これは知らないから許されます。ところが信仰にはいって相当たって、知っているはずのところの人が、理窟に合わないとお蔭がないわけです。そういう事もよく考えるべき事です。

 

やってみて、どうしても思うようにゆかないという事は、自分の浄霊の霊力が弱いのだろうとかいろんな事を思うが、そういう事はごく少ないので、本当は急所を外れている事と条件が理窟に合わない事が一番多いのだから、そういう事に気がつくようにならなければならないです。それはその人の智慧正覚です。

 

だからまず智慧正覚を磨くという事が一番肝腎です。智慧正覚が磨けると急所の発見が早いのです。これは何事にも非常に関係があります。(中略)」       (「御教集24号」S28.7.6)



「(中略)そういうようで、思いもつかない所に原因があります。だから急所と言っても、分り易い急所と分り難い急所があります。又病気ばかりでなく、いろんな事情も、意外な所に急所がありますから、それを発見しなければならないのです。それにはやはり智慧正覚です。智慧が働かなければならないのです。(中略)」

 

                (「御教集26号」  S28.9.5)



「(噴門と食道の所に癌があり、咽喉からは牛乳二合くらいしか通らず、あとは横腹に穴をあけて胃に流動物を送ってます。浄霊すると噴門の辺がもーっとして通らなくなります。そういうのは如何致しましたら宜しいでしょうか。

 

 止めたらよいです。そういう間違った事をして助かるわけがありません。そういうのに引っかかっていたら、労多くして効無し、骨折り損のくたびれ儲けです。だから絶対にやってはいけません。(中略)

 

それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。ですから滅びる人は幾らやっても駄目です。だからさっきの"食道が悪くて、噴門から何うとかする"というのは、もう救われない側になっているのです。救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。

 

ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。それは別に難かしい事はないので、見別ければよいのです。この人は救われるか、或いはもう駄目な人かという事は直ぐ分りますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。それから楽に行かないのは救われない方です。

 

この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人の方が疎(オロソ)かになり、それが大変な間違いです。

 

そういう事を見別けるのもその人の智慧正覚が向上していれば見別けもつきます。ですから智慧正覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧正覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。(中略)」          (垂示22号  S28.7.1)




   ⑥-3,熱意と経験が大切

 

「(中略)治療の上に於ても、診査の場合病原探求が主要条件で、所謂急所を衝く事である。急所を外れる場合、施術を如何に努力するも効果は薄い訳である。然らば病原発見は如何にすればいいかといふに、それは主として叡智と経験とであり、之等の条件を練磨するには熱意と時日を要する事は勿論で、そうする事によって漸次技能の向上が得らるるのである。(中略)」

 

           (「本医術と既存医術」天  S22.2.5)




   ⑥-4,急所を見つける

 

「(中略)その急所を見付けるのがなかなか難かしいのです。しかしその人の智慧正覚が進むと、急所の発見が早くなりますどんな事でもその急所をやる事です。それから急所が見付からない時に、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですから不断心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見付かるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないという時に、ちょっと急所に来ると冷める事があります。これはあなた方でも経験する事があるでしょうが、急所を発見するという事が、人間人生の最大の条件です。(中略)」

 

                (「御教集24号」  S28.7.5)



「(最近は手も触れないので急所の発見が難しく、会員に急所という事が徹底出来ないが)(中略)

 

 そういふ点は非常にあります。だから首の周りや肩などには触っても構ひませんこのさわるといふことは熱の有無を見るのであって、急所も大体上半身が主です。で、第一の急所は耳下腺、頭部淋巴腺、第二は後頭部です。患者の額に触って熱い時はその原因は額の奥後頭部耳下腺にあるとみていい

 

だからまづを御浄霊してみる。そして暫くして一寸でも熱が下ってゐれば額の奥に原因があるとみていゝ。それでも下熱しなければ耳下腺をやってみる。それでも駄目なら後頭部、未だ下らなければをやる。この順序にやってみれば熱性病は十中八、九いゝです

 

こういふ箇所に熱が出るため、咳や痰が出たり、頭がぼーっとして憂鬱になったりするのです。――又手の病気もが大切です。中風で手の利かないのも、しもやけもをすることです。しもやけなんかは手の局部丈やったのでは一時よくなっても又始ります。(中略)

 

それからもう一つ肝腎な事は腎臓から背中にかけてで、肩胛骨の間から脊骨の両側に土手の様になってゐる奴が曲物で憂鬱症、胃の悪い人はそこに原因がある。勿論この源は腎臓であり、又腰や腹の痛い人は腎盂が原因であり之は腎臓の少し下で横から圧すと大抵の人は痛むが、こゝに熱が出易いのです。腰、腹が痛んで転る様に苦しんでゐる人でもこゝをやればぢきに治ります。」

 

             (「御光話録」2242 S263.12.8.)



「(最近御浄化が強く御座いまして、押してみますと何処も彼処も痛く御座います。

 

 強くなる程、治りも良くなるしね。だから、よく自分でも、他人の色んな病人でも、必ず何処かに原因があるから、それを発見すれば良い。そうすれば楽になつていきます。それを、急所を発見しないで――急所をはずれてやるから、それで、思う様にいかないんですね。」            (「垂示8号」  S27.3.1)




   ⑥-5,浄霊の際の合理性

 

信仰の合理性に就いて、この間この欄に出したので分ったであろうが、なお最近それに関聯した新しい質問が、某中教会長からあったので、それをかいてみよう。

 

これは二年程前入信した信者の事で、入信の動機は主人の肺浸潤が治ったためであるが、本年二月二つになる自分の子供が肺炎になったので、某支部長に相談した処、自分が治さして貰うといって、それから熱心に浄霊をしてくれたが、どうも果々しくゆかず、遂に危険に瀕したので、数日前私の処へ御守護の電話がかかったのである。処がその時から大分よくなったが、まだ心配なので、今後どうしたらいいかを教えて貰いたいと、某中教会長に縋り、共々子供を連れた母親が来たのである。そこで私が答えたのは斯うだ。

 

肺炎位の病気がそんなに長くかかるものではない。必ず間違った点があるからだ。その原因は二つある。一つの方も大いに間違っているが、これは個人的であるから秘しておくとして、今一つの方はより重大であり、中教会長にも聞かしたいと思って、私は詳しく話をしてやった。

 

それはその子供の父も母も一、二年前入信しているのだから、我子の肺炎位は父か母が浄霊すればいいので、それで結構治る筈である。それを取違え自分は碌々浄霊もせずして、支部長を煩わすのであるから理屈に外れている。又支部長も支部長で、度々浄霊に赴いたというのであるから、どちらも全然間違っている。

 

本来支部長たるものの役目は、未信者の開拓にあるので、已に信者となっている人は、神様から治病の御許しを得ている以上、家族の病気などは自分で浄霊すべきである。それを支部長の厄介になるとしたら、支部長の活動を御邪魔をする訳である。又支部長はこの意味を教えるべき筈なのに、それに気がつかないとは余程呆けているとしか思えない。しかし特別の場合神様にお許しを願って、少し位なら浄霊してもいいが、それ以上はいけない。

 

 つまり何事も理屈に合っていないから、御蔭を頂けないのであるから、中教会長、支部長、教師、役員など夫々自己の階級、職責等をよく弁え、不合理に亘らぬよう注意すべきである。これに就いても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いておれば、如何なる場合でも気がつくものである。

 

 これに就いても大乗と小乗との区別を忘れてはならない一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきで、そうすれば何事も順調にゆくのである。つまり全体的利害を考え、合理的にすれば何程でも御蔭は頂けるもので、少しでも御神業に御邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である。何しろ全人類を救うというドエライ仕事で、しかも神様は非常にお急ぎになっておられるから、其処をよく考えるべきである。」

 

          (「信仰の合理性に就いて」  S28.6.17)



「(十七才の女学生でバレーの選手ですが、急に体中が引きつり、名古屋医大にて舞踏病と言われました。肩から延髄の右に物凄い固まりがあります。光明如来様は御奉斎致しており、母親とその娘が入信しておりますが、主人はまだでございます。周囲の事情により入院をと言われておりますが、奥さんは病院に浄霊に来てくれと申します。

 

 絶対にいけません。そういう事をあなたが私に聞くという事がおかしいです。そんな事は今まで知らなかったという事は変です。大体病院に行ってやるという事は、先方ではお医者さんにお任せしたのだから、こっちがやる事は間違っているから、やらないのが本当です。

 

ただ、何かの事情で病院に行ったが、本人が"もういやだ、神様にお願いしたい"と言うし、又側の人で反対する者がないという場合には行ってもよいですが、一人でも反対する者があるのは駄目です。そこの主人公が"とんでもない事をした"という気持になって、あなたに頼みに来れば行ってもよいですそうでない限りは絶対に行ってはいけません。

 

人間界の事もそうですが、特に神様の事は筋がたっていなければいけないのです。筋が立たない事は絶対にしてはいけませんだからこの間話もし、論文も書いたように、合理性という事ですから、理窟に合っていなければならないのです。今のは理窟に合っていないから駄目です。何処から見ても理窟に合っていればよいです。肝腎の主人が医者にお願いするのでは全然筋は立ちません。」

 

                (「垂示22号」  S28.7.1)



「(中略)人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、幾ら言っても駄目です。その時期というのは非常に神秘なもので難かしいものです。例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。

 

そこで救世教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人は今はちょっと言えませんが、大枝の方でしょう。大枝が救われて小枝が救われて行くのです。それを放ったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。だから分らないのはまだ時期が来ないのです。だからスラスラ行くのは時期が来たなと分るし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。(中略)」

 

                 (「垂示22号」  S28.7.1)