④-1、誠の心と多くの人を救う気持ち
「(中略)第一は誠の心を持つ。一人でも多くの人を救ふ――といふ大慈悲心の旺盛な人ほど治る。天国的生を楽しむのも結構である。それ以外に、多くの人を救ふ気持――世界人類を救ふ大きな心を持ってやると全然治り方が違ふ。その意力の強さと、大きな広さである。」 (S23.6.12)
④-2、謙虚な心を持つ
「(中略)それで、神様に御願いするのはいくら一生懸命になってもよいのです。それは構いませんが、ただ浄霊の場合には自分が治すのではないので、神様に治していただく、自分はその道具だから、そのつもりになって居ればよいわけです。(中略)」 (御垂示25号 S28.10.1)
「(中略)つまり大いに神様の道具にならせていただいたという謙遜です。気持は、相手の病人は虫ケラほどでもないが、ごくつまらない人だというように思わなくてはならないのです。これは偉い人だと思うと、こっちの霊力が負けてしまいます。救世教は他の宗教から見るとまるで桁が違っているのです。その力をいただいているとしたら、世の中の人間は虫ケラのようなものです。しかしそれを出してはいけません。こっちは大いに謙遜しているのです。そこが難かしいと言えば難かしいです。(中略)」 (御垂示22号 S28.7.1)
④-3、気魄、気力を持つ
「(気魄、気力等の強い人の方が御浄霊の効果が多いかに見受けられますが如何でせうか。)
「気魄と気力のつよい人はよく治るし急所がよくみえる。つまり頭がいいのである。」 (地天8号 S24.9.25)
「そうですね、之はありますね。気魄、気力のある人の方が成績がいゝ。それに、そういふ人の方が頭がいゝから急所を発見するんですよ。どんな病気だって急所は一つですからね。頭が悪いと之が発見出来ない。だから、霊感、第六感が働く位でなければ駄目です。」 (光話5号
S24.3.8)
④-4、多くの人に浄霊する
「(同じ様に御光を頂いてても、人によりその御力に格段の相違がある様に存じますが、之はどういう訳でしょうか。)
全くね、浄霊する人によって大変な違いがありますからね。──之は結局霊力の強さによるんですが、長く、そして数多くやってる人は強いんです。一、二年やってもどうにもならない病人を、私が二、三度やると治ってしまいますからね。それ位人によって違う───まあ、違うのが当り前ですがね。───(笑声)」
(光話13号 S24.7.13)
「(中略)そうして霊は稀薄であればある程、その偉力は増大するといふ。此原則の認識こそ重要である。然し乍ら人体放射能は最も強力ではあるが、人によりその差別の甚しい事も想像以上であり、放射能の強力である程治病力も増大する。故に私は此放射能を強力化する為身体の一局部に集注させて放射し、曇りの解消に成功したと共に、各人保有の放射能力を一層強化すべき、特殊の技能発揮にも成功したのである。此両者の方法を応用し、原理を知り、経験を積む事によって、驚くべき治病能力を発現し得らるるのである。」 (「自然力」 S22,2,5)
④-5、力を抜く
「(中略)私が常に注意する通り、力を抜く程いいとしているのは此点で、即ち力とは人間力であるから、人間力を抜く程いい訳である、此理によって慢心するとどうも人間力が加わりたがる、何よりもそうなると浄霊の効き目が薄くなる(中略)」
(「慢心取り違い」 S26.7.4)
「(中略)それで一番肝腎な事は、ウンと固ければ固いほど力を入れてはいけません。ところが固いと固いほど溶かそうとするのに力を入れてしまうのです。だから溶けないのです。これは溶けないなと思う時は必ず力がはいっているのです。だから力は、ほんのあるかなしかくらいで、はいっているかいないか分らないくらいにフワフワとやるのです。そうして想念だけは強く通す気持ですればよいのです。力を抜くとずっと治るのです。(中略)」
(御教24号 S28.7.6)
「今回、御神示により、浄霊法が変る事になったから、今日以後其通りにされたいのである。絶対体的力を抜き、霊のみを放射するのである。之を詳しく言えば、神霊の光が私から霊線を通じて、みんなのお守に止どまり、お守から其霊光が掌を透して、病人の患部へ放射されるのであるから、之からは出来るだけ、力を入れないように、軽い楽な気持で霊を放射すべきである。此方法でやれば非常に治りがよく、今迄よりも五倍以上の治病効果を奏するのは、確かである(中略)」 (「浄霊法変る」 S25.12.27)
「(中略)浄霊してどうも治りが悪いという時には、確かに力が入るのだから、できるだけ力を抜けばずっと治るようになります。なにしろ御守から霊光が出て、掌から出るのですから、ちょっとでも力が入ると、霊光を塞いでしまうのです。やっぱり人間の力で神様の霊光を塞いでしまう、と言うよりか、薄くしてしまうのです。そこに気が付けばよいのです。ですから一生懸命に御浄霊をするという事がいけないのです。
前にも言ったとおり、一生懸命ではなく、逆に楽な気持でやるという方がずっと効果があります。だから、思うよう――という事も少し変で、その人の思いようによるが、割合に治りが悪いという時には力が入っているのだという事が一番です。浄霊しながら鼻唄でもうたいたいくらいの気持でやるのが一番よいのです。(中略)」 (御垂示25号 S28.10.1)
「(中略)何病気でもそうですが、浄霊の霊力の強い弱いによって治る治らないという事があります。その霊力というのは力を抜くほど強くなるのです。ですから力を抜く事が大事です。本当に力が抜けるようになったら大したものです。(中略)」
(御垂示22号 S28.7.1)
④-6、深く浸透するように
「手の力を出来るだけ抜く事と、患部に奥深く滲透するようにする。この矛盾のような方法であるから、熟練が肝腎である。次に霊射は勿論直線である。アインシュタインの説のような光線屈曲はないのである。」 (「浄霊法講座」3 地天24号)
「浄霊の一番の修行というのは、力を抜く修行です。そうして、力を抜いてその霊が向うに通らなければならない。(中略)通そうとすると力が入るのです。そうでなく力を抜いて霊を向うに通すのです。これでやると非常によく治る」
「(中略) そうかと言って、力を入れないで霊が通らなければいけないから、そこが難かしいところです。通そうとすると力が入るから、力を抜いて霊を通すようにするのですが、それが一つの修業です。(中略)」 (御垂示25号 S28.10.1)
④-7、本当に救いを求める時は 直接メシヤ様にお願いする
「絶体絶命の時は私に頼みなさい。そういふ場合は字や絵よりも生きてゐる私の方が力がある。つまり、私がその仕事の実行者だから」
④-8、その他
「(中略)あとはその人の信仰の深さによって霊力が強くなります。という事は智慧正覚が根本です。それから一つ注意しておく事は、慢心すると霊力はずっと少なくなります。だから信仰にはいりたてで"自分なんかに、そんな、できやしない"とビクビクしている時には割に治るのです。"もうオレはできて来た"と思うようになると治りません。それは何故かというと慢心だからです。だからオッカナビックリの気持でやると治るのです。(中略)」
(御垂示22号
S28.7.1)
「それは霊界の曇りが次第に解けてきたことを意味するものである、つまり神の御光りが以前より強くなった顕れだ、従って本教信者の浄霊力が強力になったわけである、いまの私の霊力は以前の何倍かに増している、また信徒の霊力もおそらく私の二十年前位の力となって現れていると思う、だから利かぬことは絶対ない。ことに現在は日本の浄化作用が非常に激しいだけに、霊力がそれだけ効果的な働きをすることは科学的にも十分に説明されている」
(S25,1,1)
「(中略)それから、根本から言ふと「覚り」っていふ事もあるんです。信仰の深い事が判って来ると、霊力も従って強くなります。勿論、深いと言ってもどこまでも深いものなんですがね。丁度、ピラミッドの様なもんですよ。(中略)」
(光話13号 S24.7.13)
「(中略)そうして本治療を施術の場合、施術者の霊衣の厚い者ほど治療成績が良いのである。又、多くの患者を扱へば扱ふだけ治療効果が顕著になる事である。故に、本治療士は一人でも多く患者を扱ふべきで、それはどういふ訳かといふと、本治療は卓越せる効果があるから治癒した多くの患者が感謝する。その感謝の想念が光となって、治療士の霊体に入り、霊衣は益々厚くなるので、霊波の放射が強力になるからである。
故に、本医術の根本は、術者の霊衣を厚くする事である。それは短期間の講習によって或程度霊衣が厚くなり、施術の体験を多く積むに従って増々厚くなるのである。」
(「霊波と霊衣」明医三 S18.10.23)
「(中略)私が以前病気治しをやってゐた頃「先生は誰からそれを習ったのか」と尋ねられると「大自然から習った」と答へたものです。この手の光も火と水で光になり、やはり火水土です。浄化も大自然は火水土で行われてゐるのです。私の先生は第一は大自然ですが、次の先生は病人です。実際病人を治していろいろ習った訳です。(中略)」 (「光話」 S23.8.18)
「浄霊が効くと痛い。効かないと苦痛も起らぬ。痛くとも間もなく治るので、なくてはならぬ。起った浄化を一層溶かす力が不足している。治癒力の中位の人などそうである。速力の峠のようである。今少し辛抱すれば峠を越す。
下腹部は足の付根の痛み、腎臓をやる。一日に何回でもよい。続けてやれば速く痛みがとれる。数によって霊力が強いと同じ意になる。」 (「講話集補」 S24.5.6.)