2-③、薬毒に就いて
「天然痘毒素の外に薬剤の毒、すなわち薬毒といふ毒素が、如何に恐るべきものであるかを説明してみよふ。
古今東西を問はず、病気に対する薬物療法は、人類に如何に根強く浸潤したであらふか。病気に罹れば薬を服むといふ事は、腹が減れば飯を食ふといふ事程、それは常識となってゐる。然るに驚くべし、薬物は"病気を治癒する力"は全然なく、反って病気を作る即ち病原となる-といふ、恐るべき毒素であるといふ事を、私は発見したのである。到底信じ得べからざる大問題であるが、然し、真理は飽迄真理であって、奈何とも為し難き事である。
昔有名なる漢方医の言に、「元来薬といふ物は世の中にない。皆毒である。病気の時薬を服むのは、毒を以て毒を制するのである」と言った事を私は何かの本でみた事がある。実に至言なりといふべしである。又、毒薬変じて薬となる-といふ諺もある。(中略)
私は、最初の方で病気の原因は、浄化作用であり、浄化作用は苦痛が伴ふ-その苦痛が病気である-と説いてある。即ち人間は誰しも苦痛は厭だ、早く免れたいと思ふのは判り切った話である。その場合、苦痛を除るには、二つの方法しかない。一つは完全に除る-といふ事、それは排泄さるべき毒素を、全部排泄さして後へ残さない事である。今一つの方法は、一時的苦痛から遁れる事である。それは、苦痛の起る以前の状態に還元さす事である。
それは、浄化作用を停止し、浄化作用の起らない時の状態にする事である。処が、前者の完全排泄は自然治癒法であるから時がかかるのであるから、早く苦痛から逃れたい-といふ事が、今日迄の薬物療法は固より、凡ゆる療法を生み出したのである。又、今日迄の医学では、右の原理も分らなかったのである。」
(「薬剤の毒(一)」医試
S14)
「人間が病気に罹るとする。熱が出る、痛み、不快、咳、痰などが出る。薬を服むと軽くなる。丁度、薬によって病気が治るやうにみえる。然し、度々言った通り、薬と称する毒を服んで全身を弱らせる。弱らせるから浄化作用が弱る。苦痛が軽くなる-といふ訳である。処が、それだけなら未だいいが、その服んだ毒は如何なるであらふか、それが問題なのである。
茲で説明をしておくが、人体には毒素を嚥下すると、解毒又は排毒作用が行はれるやうになってゐる。然し、毒といっても殆んどが食物の毒である。であるから、人体内には、食物だけの解毒作用の力はあるが、それ以外の毒素の即時解毒作用の力はないのである。であるから、食物以外である所の薬毒の解毒作用は全部行はれないので、或程度体内に集溜する。それは矢張り天然痘毒素の場合と斉しく、神経の集注個所である。
故に、斯ういふ理屈になる。陰性天然痘毒素の溜結が浄化排除作用が起った時、それを止めて新しき薬毒を加へる-それが薬物療法の結果である。従而、今度は二元的毒素となって溜結する。それの浄化作用が起る。故に、第一次浄化作用より、第二次浄化作用の方が毒素の加増によって悪性なのは勿論である。故に、第二次浄化作用即ち再発の場合は初発より押並べて悪性であるのは、此理に由るのである。右の理由によって、第三次、第四次も起り得るのである。」 (「薬剤の毒(二)」医試 S14)
「今日迄、(中略)病気療法の方法は尽く浄化作用停止又は一時的苦痛軽減の方法以外には出でなかった事は再三述べた通りである。そうして最も効果ありとしたものが、薬剤療法であった。
そうして薬毒なるものは、啻(タダ)に浄化作用停止だけではなく、その人間の健康に及ぼす悪影響は実に想像されない程の恐るべきものがある。私の長い経験によれば、凡ゆる痛苦は悉く薬毒の結果であって、痛みも発熱も不快感も疲労も神経衰弱も原因はそれであり、全身的新陳代謝の衰耗も機能の弛緩も、咸(コトゴト)く薬毒の結果である。従而、人間の健康の良否も病気の軽重も"薬毒の多寡に因る"といふも過言ではないのである。
今日迄、人間が一度病気に罹るや、浄化作用を薬毒によって停止するが、それ以外、薬毒なる新しい毒素を追増するのである。その例として、何よりも周知の事実は、医師が医療を行ひつつ、余病が発生するといふ事である。最初の病気を治癒する目的であるに拘はらず、第二第三の病気が発生するといふ事は甚だ不合理ではあるまいか。
即ちその療法が適正であるならば、最初の病気が軽減しつつ余病など発生すべき訳はない筈である。即ち拾の病気と仮定して、時日を経るに従ひ、九となり八となり七となるやうに、漸次軽減しなければならない筈である。然るに何ぞや治療を施しつつあるに関はらず、十一となり、十二となり、十三となる--といふやうに増加するとは洵に不可解極まる話である。
之に対し、患者も医家も、何等の疑念を起さないのであるが、これは全く、医学が一種の迷信化するまでに到ったためであると思ふのである。
故に、私は斯う想像するのである。日本人が薬剤使用を全く中止し拾年経たなら恐らく病人は半減するであらう。従而日本人の寿齢は延長し、数十年を経るに於て平均寿齢八拾歳位は易々たるものであらう。何となれば短命とは病気に因る死であるからである。所謂不自然死である。病気が減少すれば自然死が増加する。自然死といへば、少くとも九拾歳以上でなければならない筈である。
又人間が死に際会して苦痛が伴ふといふ事は、天寿ではないからであって、天寿を全うして死ぬといふ場合は、例へば樹木が樹齢尽きて自然に仆れるが如く、聊かの苦痛もないのが当然である。
そうして死の苦痛の原因は何か、言ふ迄もなく、薬剤其他の方法によって浄化作用の停止を行ふからである。即ち自然である浄化作用を、不自然なる抑止をする--その摩擦が苦痛となるのであって、而も、衰弱し切った肉体であるに於て、苦痛は倍加するといふ訳である。
古から"人は病の器"といふ言葉があるが、之は大いに謬ってゐる。実は"人は健康の器"であり、健康が原則であらねばならないのである。神は人間をして、神の理想を此地上に顕現せんが為に生ませられたものである--と私は信ずるのである。従って、其使命を遂行するに於て不健康であってはならない。
故に不健康といふ事は、人間が何等かの過誤即ち神の摂理に反してゐるからで、その過誤の最大なるものが"薬剤使用"である。(中略)
私は爰で、今一つ重大な事を述べなくてはならない。それは薬毒保有者は、左の如き悪影響を受ける事であって、それが多量ほど甚だしいのであるが、世人は全然気が付かない事である。
一、常に不快感のある事。
二、頭脳の活動が鈍くなる事。
三、身体の動作が弛緩する事。
右の三項目に就て詳説してみよう。
一、の不快感は、薬毒集溜個所に微熱があるから、局部的又は全身的に悪寒があるので、常に普通以上寒がるのである。又、何事を為すにも億劫(オックウ)がり、寝る事を好み物に倦(ア)き易く長く一つ事に携はる事が出来ないのである。
そうして物事の解釈は凡て悲観的となり、常識を欠き、陰欝を好み、従而、晴天の日より雨天の日を好むのである。又腹立ち易く、甚だしいのは自暴自棄的になったり、又常にクヨクヨとして、些かの事も気にかかり、ヒステリー的ともなり、自分で間違ってゐる事を知りながら、どうする事も出来ないといふ状態で、又それを煩悶するといふ事になり、最も甚だしいのは厭世的(エンセイテキ)となり、廃人同様となる人さへある。(中略)
二、現代人は非常に頭脳が鈍くなってゐる。従而、記憶の悪い事も夥しい。(中略)
又、現代人は簡単明瞭な所説では、充分頭へ入らないやうである。諄々(クドクド)しく、微に入り細に渉り、又種々の例證を挙げて説かなければ、会得が出来ないやうである。
本来、頭脳の良い人は、一言でその意を悟り得るのである。昔の諺に"一を聞いて十を知る"といふ事があるが、現代人は"十を聞いて一を知る"のが関の山であらう。又、実際よりも理論を重んずる傾向があり、その為に、医学なども理論に偏し、実際を無視したがるのである。(中略)
三、現代人の動作の遅鈍なる事は、また甚だしいのである。之は、国民の大部分がそうであるから気が付かないのである。特に、都会人の歩行の遅い事は驚く程である。之は身体が鈍重である為である。(中略)
従而、人間の不幸も争ひも、その根本は、薬毒にあるといっても過言ではないのである。故に、薬毒のない人間の社会が出現するとしたら如何に明朗であるかを私は想像するのである。全く薬毒が無くなった人間は、頭脳明晰で、爽快感に充ち、生々溌剌としてゐるのである。」 (「薬毒」明医一 S18.10.5)
「(中略)今日迄、(中略)凡ゆる病気治療の方法は、悉く浄化作用の停止以外には出でなかった事は既に述べた通りである。そうして浄化停止に最も効果ありとしたものが薬剤使用であった。然るに薬剤なるものの本質は悉く有毒物であって、人体を毒作用によって衰弱せしむるのである。此事に不明であった今日迄の世界人類は、薬剤なるものは何か神秘的治病力を有するものの如く思はれたのである。
(中略)之は勿論病気の本体が全然未知であったからで、それが即ち病気を悪い意味に解釈し、薬剤を良き意味に解釈したのである。実に逆理に気が附かなかったのである。然し乍ら日本に於ても徳川末期の漢方医の大家杉田玄白は曰った。『元来世の中に薬なるものはない。薬といふのは悉く毒である。故に薬によって病を治すのではない。実は毒を以て毒を制するのである』-とは洵に先覚的至言である。(中略)
そうして薬剤は効力発生後消滅すべきものと医学は信じてゐるが、それは非常の謬りで実は体内にいつまでも残存する。何となれば人間として飲食すべき物質は造物主が自然に決定してゐるのである。
それは人間が生命保持の為として造られたる食物である以上、必ず味はひなるものを有ってゐる事と、消化機能なるものは、天与の食物に順応すべき性能に造られてゐるものである。従而それ以外の異物は消化機能の役目以外のものである以上、消化せずして残存するのは当然である。(中略)
そうして薬毒が病原になるといふ事実に就て一般に気の就かない事がある。それは医師が医療を行ひつつあり乍ら余病発生といふ一事である。仮し医療が真に効果あるものとすれば、治療するに従ひ順次全治に向ふから、余病などの発生はない筈である。即ち仮に最初三つの病気があれば二つとなり、一つとなり全治するといふ順序でなければならない筈であるに拘はらず、反って一つの病気が二となり三に殖えるといふ事は洵に理屈に合はぬ話である。それ等の事実に対し、医師も患者も何等疑念を挿まないといふ事は不思議といふべきである。(中略)
右の理によって人類から薬剤を取去ったとしたら、病気なるものは漸次消滅すべきは断じて疑ひない所である。そうして私が幾多の患者を取扱った経験上薬毒の多少によって病気の軽重を判別するのであるが、洵に正確である。(中略)」 (「薬毒」天 S22.2.5)
「前項の如く今日迄、病気の浄化作用を知らず、それを固める事のみ専念したが、固めるという事は勿論浄化発生以前に還元させる事で、本当の事が判った眼からみれば愚の一字に尽きるのである。勿論自然は毒素を排除しようとするのを一生懸命に排除させまいとする事を治る方法と錯覚したのであるから全然反対であった。随而今日までの医学は健康者にしないように一生懸命骨折って来た訳である。
然らばどうして其様な誤謬に陥ったかというと、浄化は苦痛が伴ふので薬剤を使用すると、苦痛が幾分か緩和するから、之で病気が治ると思ったのである。一言にして言えば、一時的効果に眩惑され、不知不識医の本道を踏違え今日に至ったのであるから、薬剤を唯一のものと思ったのも無理はなかったのである。
これが為長い間薬剤本位に進んで来た医学は、真の医道ではないから治りそうで治らない為次々新薬が出来る。此結果現在薬の種類の多い事は恐らく何百何千に上るであらう。而も今以て新薬の出現が絶えないのは右をよく物語ってゐるのである。
右の如く薬剤迷信に陥った医学であるから、今日吾々が病気の原因が薬剤の為である事を説いてもあまりの意外に到底信じ得られないのである。
よく言ふ言葉に、薬はいくら服んでも注射してもさっぱり効かないとは長い病人のいつもいふ言葉であるが、之を聞く毎に私は斯う答えるのである。薬が効かないなどとはとんでもない間違ひである。効かないものなら心配する必要はないが、実は効き過ぎる位効くのである。といふのはよく効くのではなく悪く効くのである。
即ち薬は病気を作るからで、もし人間が薬を用いなくなれば病気は消滅して了ふであらう。とすれば人類史上之程意外であると共に大問題はあるまい。之によって私は薬毒を知らしめる事が、先づ人類救済の第一歩であると信じ徹底的に説くのである。
随而、此地球上に薬といふものは一つもない。全部毒である。毒によって人体を衰弱させ、浄化停止される程よく効く薬といふ訳である。(中略)以上の理によって今後と雖も何程新薬が出現しても真に病気を治し得るものは一つもない事を断言して憚らないのである。近来注射が流行るが、服めば中毒を起す程の強烈な毒薬であるから服む薬よりよく効く訳である。
そうして薬毒によって一時的苦痛緩和の結果はどうなるかというと、その薬毒は人体に残存するのである。処が医学では副作用のある薬毒もあるにはあるが、薬毒は凡て消失するといふのであるが、之程の間違ひはない。それは薬毒発見までに医学は進歩してゐないからである。何となれば、人体の消化器能は天与の食物のみに限定されてをり、それ以外の異物は処理されないように出来てゐるからである。
実に造化の妙は自然の二字に尽きるので、処理され得ない異物である以上、薬毒は殆んど残存する。それが時日を経るに従ひ、各局所に集溜し固結する、之が凡ゆる病原となるのである。
何よりも医療を受ける程病気は殖え次第に悪化するにみて明かである。又余病発生といふ事もその為である。即ち一の病気を治そうとして二となり、三となるといふように病気が殖えるのは、医家も常に経験する処であらう。もし真に薬剤で治るとしたら三の病が二となり一となり零となるべき順序ではないか、此判り切った事に今迄気がつかなかった事は実に不思議といふべきである。
右の理によって罹病するや、放任しておけば大抵は治るものである。もし容易に治らないのは薬毒多量の為であるから、そのような場合気永にすれば漸次治癒に向ふのは当然である。処がその理を知らない医学は、人為的に治そうと骨を折れば折る程逆効果となり、漸次重体に陥り死に迄至るのである。
嗚呼、医学の誤謬たるや何と評すべきか言葉はないのである。今日迄数千年間此理を知らなかった為何億の人間が犠牲になったかは計り知れないであらう。然るに私が此発見をしたといふ事は、時期到って神が人類救済の為、私を通じて公開されたのである、といふ事はいよいよ人類の理想である病無き世界が茲に実現するのである。」 (「薬毒」自叢十 S25.4.20)
「(お
伺)昭和二十三年十一月二十五日左の下顎骨が顎裏を破つて膿と共に排泄致し、現在尚破れた口(二寸位)の両側が髭のある儘内側に巻込み、丁度ザクロの割れた様になつて皮が張つて了い、此処から絶えず唾液が流れたり、息も洩れたり致します。
唇、下顎あたり全体は絶えず痺れて、締付けられる様な感じと激痛が続いて居りますので、長時間体を動かしますと目眩が致します。下歯は肉についた儘残つて居りますが使用出来ず、奥歯が口を動かす毎に上顎をつき上げ、その痛みの為苦しんで居ります。
御蔭様で食欲がありますので体力は御座います。余りに長い御浄化に家族の者は罪の深さを知つて、浄化中の父と母と兄嫁を残して、兄弟三人御神業に専念させて頂いて居ります。
信仰上到らぬ点並に御浄霊の急所と皮の張つた傷口と残つた奥歯は、今後何の様になるもので御座いましようか。
〔御 垂 示〕
この人は以前に何か薬を入れた事があるのですか。
(性病の様な事も多少あり、薬も随分入れて居ります)
それです。薬毒ですよ。薬毒がそこによつて出ようとしている。薬毒が沢山あるから日がかかる。浄霊を始めてから何の位になりますか。
(三年位です)
その位じやしようがない。私は歯を毎日浄霊してますが、之で三十六年です。
(傷口ですが、巻込んだ儘毛が生えて参りますが)
色んな変化があります。結局、薬毒ですよ。ですから、薬毒を簡単に思うが、薬毒は大変なものです。私は浄霊始めてから二十年になるが、未だ解決しない。今でも毎日やつてます。慣れつこになつて了つたが、年々治つて来ます。薬を入れたのが昭和三年ですからね。未だ取れない。薬毒の少しひどいのは十年、二十年は何でもない。
だから三年位ではね。迷つたり、懊(ジ)れたりしては神様に申し訳ない。命がないんですからね。それに感謝する事で、それに一寸でも――何うかすると、御守護が切れます。」
(「御教集2号」 S26.9.8.)