C-⑧ 心臓性神経衰弱

 

⑦-1,罪穢による場合

「現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像すれば判る。

 故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於ける、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現はれるのである。

 西洋医学は、肉体へ現はれたる病気を、薬剤や器械で治さうとするのである。然し、よしそれで治った所で、精霊の曇を払拭されない限り、再び肉体へ病気が現はれるのは当然である。之も社会事業と等しく結果のみを治す膏薬張式で根原を無視した行き方である。一時的方法でしかないのである。(中略)」
        (「病気の原因と其解消」観運  S10.9.15)



「(中略)斯の様に精霊の曇りが浄められるといふ事は、遡れば、祖先の罪が赦されるといふ事になるから、地獄界に苦しんでゐた祖霊達が向上して、天国へ救はれる事になるので、その信仰の徳は予測出来ない程の洪大無辺なものである。」
        (「病気の原因と其解消」観運  S10.9.15)



「(中略)罪穢は脊髄の三分の一位の所と尻へ出て来るのが普通である。(中略)」   (「天照皇大御神」観講 S10.9.15)



「(中略)祖先等が霊界から飛出して来て憑るのは生前無信仰の為、霊界へ行っても所属すべき団体がないので行く処がないので、致し方なく出て来て自分の子供へ憑くので病気になる

 祖先の罪穢は脊髄を中心にして来る。祖先-頭-脊髄-尾-子孫。我々は現在子孫だから尾である。(中略)この脊髄へ流れて来た罪穢は下へ降って方々へ行く。頭、目、鼻、心臓、腎臓と何処へでも行くのである。脊髄は万病の源である。」 
           (「天照皇大御神」観講  S10.9.15)



病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、其汚血と水膿は精霊の曇の移写であるといふ事は、既に述べた通りであるが、然らば、其曇は何れから発生流転して来たかといふと、それが罪穢なのである。而して、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。即ち先天的多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。

 先づ第一の祖先の罪穢を、悉しく述べてみよう。今、現在生きてゐる吾々個人は、突然と涌いた処の、何れにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、其尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言へば、親と子を繋ぐ楔子(クサビ)でもある。

 祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、輒(スナワ)ち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。

 人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体といふ衣を脱ぎ棄てるのである。人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属してゐるものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃して使用に耐えない以上、精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。そうして、霊界に於て再び現世に出生する準備をしなければならない事になってゐる。其準備とは浄霊作用である。

然るに大部分の人間は、生存中に於る罪の行為に由る穢が相当に多いので、霊界に於ての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、其際罪穢の浄化による、残渣とも言ふべき霊的汚素が、現世に生を営みつつある其子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するといふ、一種の因果律的贖罪法である。

之は万物構成に於る主神の神律である以上、如何ともし難いものであって、人間は之に服従する以外、何事も出来得ないのである。それは此霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、其汚素が人間の精霊に入るや、忽ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。之が凡ゆる病原となるのである。

 第二の個人の罪穢を説いてみるが、之は誰しもよく判るのである。如何なる人間と雖も、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくといふ事は、出来得べからざる事である。然し罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。亦行為に表はれる肉体的の罪もあり、心で思ふ丈の精神的罪悪もある。

基督が曰った、女を見て妙な心を起した丈でも、姦淫の罪を犯す事になるといふ戒めは、厳し過ぎるとは思ふが、間違ってはゐないのである。斯様に、縦令、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやり度いとか、姦淫したいとか想ふのは、誰しも罪とは思はない程の微細な事ではあるが、是等も長い間積り積れば、相当なものになるのである。

又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、兎に角優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。之等も其恨に依って一種の罪となるのである。又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違へるとか、嘘言を吐くとか、いふ様な事も不知不識侵す一種の罪である。

斯の様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。然し、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであらふと思ふが、決してそうではない。すべて人間は、親の膝下(シッカ)を離れて、一本立になれば兎も角、親によって養はれてる間は、親の罪穢も分担する事になってゐるのである。恰度、樹木に例えてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、其又枝が孫である。幹である処の親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。(中略)」
          (「病気の原因と罪穢」医書  S11.4.13)



「(中略)今一つ有力な病原として"祖先の罪穢"に因るそれを説かなければなりません。
祖先の罪穢とは--、
絶えず祖先が霊界に於て「霊の浄化作用」を行はれる結果、その残渣ともいふべき汚濁が「子孫」即ち吾々へ流れて来て、それが病気となるのであります。吾々個人とは、実に、祖先と子孫との間をつなぐ処の"一連の鎖の-その一個"に過ぎないのであります。故に「祖先の行為」が吾へ結果し「吾の行為」が子孫へ結果するのは当然であります。(中略)」
          (「病気発生の原因」療講  S11.7.)



「(中略)如何なる人間と雖も、生きてゐる間善も行へば悪も行ふので、その際善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢となって魂を曇らすので、其曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。そうして、其曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、曇りの溶解排除が行はれる

然しそうなる迄の過程として曇りは漸次一ケ所又は数ケ所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。面白い事には其罪によって固結場所が異ふ、例へば目の罪は目に頭の罪は頭に胸の罪は胸にといふやうに相応するものである。

 次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るのであるが、其場合最初血液の方に濁りが生ずる。即ち濁血である。すると霊にも其通りに映って曇りとなるが、之も前者と同様局所的に分散濃度化するのである。元来人体なるものは霊の物質化したものが血液であり、反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊と体は同様といってもよいが、只霊体の法則上霊の方が主になってをり、体の方が従となってゐるのである。

処が何れにせよ右の原因によって、毒素は絶へず人体に溜り固結となるので、其固結が浄化作用によって溶解され、液体となって身体各所から排除されやうとする。其為の苦痛が病気なのである。(中略)」              (「霊主体従」文創  S27)



「どういふ形で祖先の罪は子孫へくるかといふと、多く脊髄へくる。御自分の犯した罪は外へくる。頭と脊髄へくる、之は何か、祖先から子孫へ流れる形は経である。祖先の霊線は頭へ来てゐる、目の上へくる。よく頭が重いといふが、之は祖先が霊界で苦しんでる証拠で、頭へ来てオッかぶさってる訳で、頭へ重荷を負ってる訳である。首筋から脊髄へ来、よく脊髄カリヱスになる。これは罪が直接流れて来て膿になってくる。

 肺など脊髄から膿が出て肺に入るのが非常に多い。そういふ訳であるからして、祖先の罪穢といふ事によって病気発生し、それにより早く死ぬ。之が根本原則である。

 霊統といふのは、霊線といひ霊に線があり之は沢山あって、今迄霊的事実にぶつかって霊統といふものは争へない事を沢山経験してゐますが、よく霊が乗憑ったり、死霊が祟る事があるが、全然縁もゆかりもない所へは出来ない。善いにつけ悪いにつけ、必ず霊統のものに祟ったりなどする

 どんな方でも、祖先の霊線は何百本、何千本霊の巣の如く引かれてゐる、綜合されてる。これは切っても切れない、どうしても繋がってゆく。草木とすれば、種が落ち実がなり、又、種が出来、実がなると--そうなって、どこまでもその種の霊統が繋がってゐる。(中略)どうしてもそれだけの特色をもって続く。之が何種何億にもなる。

 自分自身は霊線により繋がってる。全然関係なく繋がってゐるものでない。
 祖先がまるっきり罪なく往生する事もない、滅多にない。何でそれは証拠立てるかといふと、寿命でないのに死ぬ事がある。何故死ぬかといふと、罪の重荷に堪え切れずに死ぬ。病気はすべて罪の重荷に堪え切れず死ぬのである。」      (御講話  年月不詳)